2010年12月12日日曜日

時の流れに身をまかせ

引越しをする前と後で時の流れが変わった様な気がする。
以前は一週間があっという間に流れて行った。
気がつくと金曜日。え?もう、週末?という具合。
それが今では、まるで時が止まったかのようなゆったりした不思議な感じにとらわれている。
透析は月水金、火木土はヘルパーさんと訪問看護師と変わりの無い一週間を過ごしているのだけど、時間という観念が全く違っているのだ。

曜日の意識がまるで無い。一日も妙に長く感じるし一週間が途方もなく長い。これは一体どういうことだろう?
引越しによる環境の違いからだろうか?このまま永遠に12月が続く様な気さえする。
目標を見失ったからだろうか、
自分がこれから先、どう過ごして生きて行くのか、一日をどう過ごしたらいいのか、このまま時の流れに身をまかせそのまま流されて行けばいいのだろうか、何かそんなことばかり考えているから時間が進まなくなったんだろうか。
また、目標を作って一日を過ごせば一週間はあっという間に過ぎ時間は流れて行くのだろうか、そんなことを考えながら長い一日が終わって行く。

2010年11月8日月曜日

長時間透析

長時間透析って何時間から?と思っていたら




週3回x6時間=1週18時間 程度でも長時間らしい。



スタンダードである4時間x週3=週12時間を越えればそれはもう、長時間透析。



長時間透析の効果としては

次のようなものがあるそうですが、


  • 血圧の正常化、降圧剤の減量ないし中止

  • ドライウエイトが上がっても血圧は悪化しない

  • 透析間にたとえ体重の10%増加しても心不全を起こさない、臨時透析が不要となる

  • 貧血の改善、エリスロポエチン製剤の使用を減らせる

  • 心筋重量の改善、心収縮力の改善

  • 背中などが痒くなくなった(皮膚掻痒感の消失)

  • 発汗能の回復、水分を多く摂取すれば汗も多くでるようになる

  • 味覚の回復:食事が美味しくなった

  • うな重、ピザを食べても、リンは5以下を維持できる

  • 透析後のBUNは20以下

  • 血糖、HbA1c、GAが改善した

  • 透析前に果物を多く食べられる

  • 生活に張りがでてくる

  • 意欲低下の改善

  • 低下していた計算力、物覚えが回復した、頭がすっきりした

  • 透析後の疲れや渇きが無くなった

  • 透析後の買い物や運動がつらくなくなった

  • よく眠れるようになった

  • 便秘が治った

  • とにかく元気になった。前とは違う自分となった。 (WEBから引用)




どこからどこまでが長時間透析のせいなのか怪しい内容もあるにはあるが、



一度やってみないとわからない。



もっとも、20年くらい前までは週18時間やっていたんだよねえ。。。



あのまま、週18時間を続けていてくれれば、



だイライザーの改良で透析量が上がってドンドンよくなったのに。。。。。



医療者側のコスト削減と、



患者側の短時間への憧れから、週12時間透析が標準化してしまった。



今更、長時間やっても大腿骨骨頭置換した骨が治ったり、



流出した関節軟骨が元に戻ったり、すたすた歩けるようになるとは思わないけど、



これ以上、内臓や心臓に負担が掛からないなら、



可能な限り受けて見たいよな。



問題は通える施設があるかだよねえ・・・

2010年10月28日木曜日

全腎協設立当時のお話。

神奈川県腎友会機関紙「じんゆう」10月号より。


三浦腎友会平成8年5月に行われた総会での全腎協設立当時に関わった方のお話を
載せています。

只今、ご紹介頂きましたがいろんな役にかかわっている訳ですが、役をやるつもりでやっているわけでなく、一緒に透析をやっている者が苦しんでいて、同じ病気で苦しんでいるのなら動けるものが何とかしなければと言う気持ちから運動に入りました。総会で古い話をしてくれとありましたので、昔の状況を皆さんに知っていただくのも大切かと思い話をさせていただきます。


 私も昭和43年頃から蛋白尿がでて、仕事をしていてもすぐ疲れる状況にありました。受診していくうちに腎機能がだめだということで東京の病院に救急車で運ばれました。10日くらい経ってどうやら生きていけないぞと言う感じを受けました。医者に私の命はどれくらいか訊ねたら一ヶ月くらい、助かる方法は透析というのがある、との話。透析にかかるには東京には空きがない、横須賀の共済病院にあると紹介され、横須賀に戻ってきました。


 昭和45年当時、透析をやっていた人は8人位だったと思うが、私はすぐにでも透析が出来ると思ったが全然出来ない。透析の機械の台数が少なくてかかれない。かかるには貴重な透析機械なので身元調査をし、財産とか学歴とかを調べ、世の中のためになる人を優先的にするという選択をしていました。私が透析にかかれたことは幸運であったと思います。


また、当時の健康保険なんですが、健康保険は昭和42年12月に適用になったんですが、私は健康保険本人ですので医療費負担はないんですが、健保の家族で5割負担で大体10万~30万かかります。私の給料が2万5千円くらいですから大変なものです。家族は働けるものは皆一生懸命働き病院に20万も納める人がおりまして、その方は病院から家に帰ってもいいといわれていても帰れない。家族が皆、朝から晩まで働いて自分だけ病気で寝ているわけにはいかないという。病室中、そのような話があり、治療しながら皆、泣いておりました。


これは困った、何とかならないか、と言う時、ちょうど新聞に広島腎友会設立という小さな記事があり、これだと思い、会を作る機運が生まれました。この医療費を何とかしなければならないということで横須賀共励会を昭和46年2月に設立したわけです。


設立の記事が全国版に載ったと思うんですが、これを板橋にある「ニイレの会」(ニイレ=ドイツ語で腎臓)の人が見てその呼びかけで全腎協の準備会に参加しました。


当時、板橋病院の事務局長をしていた方の友達が新聞記者をしておりまして、アピールするいい言葉は無いかということで、「金の切れ目が命の切れ目」と非常にセンセーショナルに世間に伝わりました。


当時、何度も厚生省に行きましたが、時の厚生大臣は金で命が左右されることはならん、ということで、昭和46年6月に全腎協が発足したが、厚生大臣にお願いしてわずか1年で更生医療、育成医療、と言うお金が無くて誰でも透析にかかれるという結果になりました。


患者運動が1年でこれだけの内容を勝ち取ることは異常な行動だったなと思います。


 当時、私は東京へ行くときに10段の階段を登るだけで貧血で何度か倒れました。ヘマトクリット20もなく15とかその辺でしたから。顔も真っ黒、土色で、いつ死んでもおかしくないと言われておりました。


そんなことで、昭和47年10月に更生医療、育成医療が適用になりました。
皆さん本当に生きるために大変だったということを記憶していていただきたい。
当時、共済病院の機械はミルトンロイというアメリカでは家庭透析用で一人一台なんですが、それに最高4人がかかって生き延びました。笹岡先生以下の先生も少なく看護師も専門にいたのは一人で私たちが準備したり応援しながら透析をしていました。


 シャントも外シャントで詰まりやすく片手3ヶ月と言われておりました。私も右手3ヶ月、左手3ヶ月、左足まできましたので残り少ないなんて自然に涙が出てきたものです。
しかし、昭和47年頃から内シャントができ、詰まることがなくなりました。今の透析患者が長生きできる画期的な方法だと思います。


昭和46年6月に全腎協が出来、いろんな問題を少しずつ解決する間、県の組織が出来ないと県の予算が引き出せない、透析が伸びないと言う思いから県腎友会が昭和51年に出来ました。その後、各市町村単位の活動の必要性から横須賀共励会からわかれ三浦腎友会が出来ました。今は会員100名近いと聞き驚きです。


今後も会を発展させ安心して透析が受けられる、また、新しい患者を増やさないような運動を進めていかれることを望みます。


全文を載せました。



彼は私と同じ病院で透析開始も3日違いです。私は子どもでお金の心配はしていませんでしたが健保家族で父親は大変な思いをしていたわけ、でそれこそ、彼のような人達の運動のおかげで今、生きていられるわけです。

彼は、家族から腎臓の提供を受けて透析から離脱したんですが、今、元気でこの体があるのは透析のおかげと患者運動を続け、自分は縁の下の力持ちという信念の元、今も活動を続けています。



ブログという性格上、お名前は伏せさせて頂きます。

2010年10月17日日曜日

巨人連勝でフアイナルステージへ!

 

プロ野球セ・リーグのクライマックスシリーズ(CS)ファーストステージ(3試合制)第2戦は17日、兵庫県西宮市の甲子園球場で行われ、巨人が7-6で阪神に逆転勝ち。連勝でファイナルステージ進出を決めた。

金木犀 A fragrant olive.

A fragrant olive.


When walk the town; a fragrant olive fragrant from somewhere.

I remember optimistic first love in the days of the elementary school.

HAGI (bush clover)

The flower "bush clover" which blooms in autumn.


It is the flower which is written most in Japanese "Manyoshu tanka collection".

Mukoujima variety of flowers garden / Tokyo

2010年10月15日金曜日

長時間透析の事

2009年透析の現況


を見て思ったこと。

僕は2007年にウェブを始めて透析の情報に触れるまで、医者任せでした。



昔は病院もヘマトやカリウムの値を教えてくれるくらいで血液検査の結果表なんてくれなかった。(と思う)



言えばくれたのかもしれないけど・・・・



現在はちゃんとプリントして渡されるので診察で個別のデータについて質問すれば教えてくれますね。



Kt/Vなんて言葉すら知らなかった。



こうやってプリントアウトされると保管もするし昔のデータを見ればそれこそ、アルバムを見るように



その頃の様子が思い出されます。



「あ~~、あの年の夏は食欲がなくてHtもおちこんでたなあ・・・」とか、



「あれ?PCRって1越えたことあるんじゃん。」とかね。





検査結果を見る様になると気になるのはやはり、自分の透析量が適正か、ということです。



死ぬはずだった命が助かって41年も生き延びて透析が十分か?



など贅沢かもしれませんが、、いつまでも元気に生きていたいのは人情ですね。



そこで、まず、計算するのがKT/Vですかね。



尿素窒素がどれだけ抜けているか、計算して出す指標というんですか?



1.4以上はあったほうがよいと言われていますが、施設によってこれがまちまちだそうです。



もちろん、平均ですからもっと高い人も低い人もいるわけで、栄養状態などでも、



違ってくるわけですね。透析前の値が低かったり、高かったり、血液の採取方法でも、



違ってくるそうですから、一概には言えませんけど、僕たちには分りやすい見方です。



見たことがない方は尿素窒素の透析前と後のデータを見れば自分で計算できますので、



一度やってみてください。



透析量で今、話題になっているのが長時間透析と高血流です。



日本の透析施設で一般的なのが4時間x週3回の透析です。僕もその中の一人です。



それを4.5時間x3回にしたり6時間以上x3回やそれ以上の長時間透析をすることです。



健康な腎臓は24時間、休みなく働いており長時間透析をすることで、少しでも、健康な腎臓に



近づこうと言う考え方です。 もちろん、4時間の透析が辛いのに1分1秒でも早く終了したいと、



切に思う患者さんもいます。実際、僕が始めた’70年頃の透析は貧弱なダイアライザーに



透析施設、要員不足で10時間x週2回と言う時代もありました。その頃の透析控え室の会話では、



「きっと将来はもっと、短時間か埋め込み式の人工腎臓が出来るよ。それまで頑張ろう!」



とみんなで話していたものです。



その願いこそ時間短縮で叶ったわけですが、さらに将来はどうなるのでしょう?



28万人の透析患者の大多数が6時間x週3回以上の透析を受けることが可能でしょうか?



透析施設は?スタッフは?財政的には?就業にはどうなのか?夜間透析は?



心配な要因が山積しています。



病院へ行かなくてもよい方法は出来ますか?



仕事に復帰したり元通りに社会復帰することは出来ますか?



透析黎明期の患者の夢はまだ先ですか?



答えは私が生きているうちにお願いします。

2010年10月10日日曜日




コスモスの花言葉


乙女の純潔・真心











10月の3連休初日ですが、

生憎の空模様となりましたね。

横浜は珍しく肌寒い日となりましたが、

皆さんのところはいかがですか?



連休でドライブとか予定していた方もいたのでは?

今はやっぱり、コスモスとか彼岸花でしょうか。。。

僕も見に行きたいところですが・・・

妄想花見で我慢します。




葉は順調に繁っているし、

幹も太いかな?と思うんですが、

1年3ヶ月目としてどうなのかな?

なにしろ、思いつきで始めたプルメリア・・・

比べるものがないのでわからない。

今年もまた、寒い冬がやってきます。

無事、冬を越してくれれば、来年はもしや?

淡い期待を寄せています。

2010年10月3日日曜日

カリーナ(続き)

<2>




金髪君もふとっちょ君もまだ若い。二十歳そこそこに見えた。にぎやかに話しながら運転している。

おれは○○さんのレッカー車は?」と聞くと

「これ、まだまだ動くから、先に帰ったスヨ~!なあ、げははは!」と、太っちょと笑う。

おれは後部差席の真ん中から身を乗り出すようにして「なあ、そんなにスピードだして大丈夫か?」

といって、メーターを見ると80kは出ている。金髪君が

「だいじょうぶっすよ~。快調、快調!ゲハハハ!」

「でもさ、ブレーキ利かなかったぜ!」というと

「5速あるからいざって時は2速にぶち込めばエンジンブレーキ、サイドもあるし。こうやって・・・」

といいながら80kは出ているのにいきなり5速から2速にぶち込んだ!

ギアボックスからチュイ~ン!と言う金属音がして、急制動が掛かり僕の体は前につんのめり太っちょが座っている助手席にしこたま、頭をぶつけた。

「おい、おい、気をつけろよ。ギア、ぶっ壊れたんじゃないか?」と聞くと

「おれら、修理やだから、壊れたら修理しますよ~。ゲハハハ!」取り付く島も無い。

そのうち、広い丘のようなところに建物が並んで立つところを走っている。建物は敷地が広く門には守衛らしきものが立っている。大学の研究施設のようだ。「横須賀にこんなとこあったか?」と聞くと

「最近出来た街っすよ~。」金髪が答える。太っちょはまだ一言も口を利かない。

道はアップダウンが激しくなり勾配の一番底のに道が交差して信号がある。信号は赤だ。

スピードは落ちない。

「おい、赤だよ!」

「ブレーキ、利かないんっすよ~!」

「効かないって言ったじゃないか!」

「青にならないっすかね~!」

「だから、スピード落とせよ~!ギア、落とせよ!」

また奴は2速にぶち込んで今度こそギアボックスはガッチャーンといって2速がぶち壊れた音がした。

が、急制動はかかってスピードが落ちた。信号は青になりカリーナはぎりぎりで通過した。

「なあ、青になったじゃ~ん!ゲハハハ」

金髪が言うと太っちゃがうしろの俺の方を振り向いてニヤ~と笑った。







金髪はスピードを戻しながら「でもさ~、次はどうしようか?2速、壊れたっぽいよ。」

「ポイ、じゃね~よ!だからいったろ~!なんで2速にいれんだよ!」

俺は手にびっしょり汗をかいていた。

「じゃあさ、次は3速でいくね。足りんかったらサイド引くから。」

言い終わる前に、なだらかな坂になり、

交差点にはテープが3本、20m感覚くらいで張ってある。

「テープが張ってあるよ。どうすんの?」というと

「あれはね。最初のテープを20kで通過してそのまま20kで行けばテープは次々あがるって寸法!」

「じゃあ、スピード落とせよ!ていうか、何でそんなスピード出すんだよ!!!」俺は怒鳴った。

「だって、カリーナだもん。ゲハハハ!3速、行くよ~!」

ガン!ガン!と言った感じでスピードが落ち最初のテープをクリアした。

「次が無理だな~!」金髪がのほほんと言う。「なんとかしろ~!」俺は叫ぶ。

「サイド、2回引くよ~!再度だけに~!ゲハハハ!」

ガン!ガン!とサイドを引きブレーキがかかった。

スピードは20kでテープをクリアし3本目のテープもそのスピードでするするとあがっていった。

「イエ~イ!クリア~!」金髪と太っちょはハイタッチ!俺もハイタッチしていた。



3人とも手のひらは汗でびっしょり。

目が覚めると俺は体中、汗でびっしょりになっていた。

カリーナ1600ST

僕は駐車場に向かって歩いていった。カリーナ1600STは変わらずそこにあった。キーをまわしドアーをあけ運転席に座ってみた。何も変わっていない。独特のシンナーっぽいにおい。低い視界。僕はしばらくそこに座って感慨にふけっていた。




ふとみると、女性が車のドアーの脇に立って窓をたたきながら何か叫んでいる。カリーナはそんなに静粛性が高いわけではないのに何を言っているのか聞こえない。

「何かありましたか?」窓をあけていった。

女性は「あら、違うじゃない!なによ!」といって、ドアーを蹴り上げた。

「なにをするんだ!」と、言いながら外へでてみるとドアーの真ん中がぽっこりとへこんでいる。

「どうするんだよ~!これ~!」と僕が言うと女性は「直せばいいんでしょ?おいくら?」

僕は頭にきて「理由も無く人の車を蹴ってへこませてその言い草はないだろ!」と詰め寄るとスーパーの買い物袋と2歳くらいの子供を抱えた男性が「どうしたの?」といって近づいてきた。

女性は「あなた~、私の不注意でこの方の車、へこませてしまったの。直して差し上げて。」と言った。

「それはすいません。妻のやってことは僕が責任を取ります。どうぞ、修理をして請求書をこちらに回してください。」

僕は「いやいや、そういわれてこのまま帰ってもらって住所も電話番号も分からぬでは困る。お名刺とか保険証書はありませんか?」と言うと、保険証券を持ってきた。

名刺には千葉県のなんとかいう地名が書いてある。これ以上ゴタゴタしてもしょうがない。僕は名刺をもらって帰ってもらうことにした。

再び車に乗りドアーを閉めるとしっかり閉まらない。走行中に開いてしまっては大変だ。僕は事務所に行きガムテープをもらってきて乗った後、テープでぐるぐる巻きにした。このまま近くの修理工場へ行こう。ちょっと不安はあったがゆるゆるいきゃ大丈夫だろう。。。。



僕はエンジンをかけて走り出した。なじみの修理工場はここからそう遠くない。駐車場の出口まで行きブレーキを踏む。がものすごく効きが悪い。ふにゃ、っとした感じで床まで踏み込む。サイドを目一杯引かないと止まらない。・・・ありゃ~、長年、乗っていないからオイルでも漏れてデイスクについたかな?・・・



ここで僕はもうずいぶん、車に乗っていないことに気が付いた。不安がよぎったがすぐ近くなので大丈夫だろうと思い発進した。

国道16号を南下する。しばらく行けば着くはずなんだが着かない。風景もなぜか見覚えが無い。どうやら迷ったようなので大きな交差点を右折した。なにを思ったか曲がって反対車線に入ってしまった。トラックや乗用車がこちらに向かって走ってくる。プアーン!ビビビビビー!左の歩道へ乗り上げるようにして止まった。



「馬鹿やろう!なにやってるんだー!」口々にののしられた。気を取り直してUターンしたら前の車に追突。

しかも黒塗りの高級車。中から運転手らしい人が出てきた。「困りますね~!どこを見てるんですか?」今度はこっちが加害者。今日はどうなってるんだか。。。。

運転手と話していると後部座席の窓が開いて車の持ち主らしき方が声をかけてきた。

「君、怪我は無い?」

・・・え?僕の事?・・・

「はい。けがはありません。」

「君の車のドアーがへこんでいるようだけど・・・」

「あ、これは違うんです。これを修理しようと工場へもって行くところなんです。」

「工場はどこ」

「○×の○△です。」

「あ~、あそこの○○さんなら良く知っているよ。僕の車はなんとも無いから、気にしないでいいよ。君の車はひどそうだね。取りに来るよう頼んであげるよ。」

「え?ホントですか?申し訳ないです!僕の方がぶつけたのに。。。」



小1時間ほど待っているとレッカーがやってきた。若い男が3人。

金髪の小さい男とふとっちょと工場で見かけたことのあるつなぎの男。

「○○さんに言い付かってきました。お車お運びしますんで後ろで寝ていていいですよ。」

僕はほっとしてカリーナの後部座席で眠りに付いた。

目が覚めると金髪の男が運転している。助手席には太っちょ君が・・・

「あれ?自走して持っていくの?」

「あたりまえっすよ~!」金髪男がにやりと笑った。


To be continued

2010年9月23日木曜日

ICUな恋(続き)

次の日の朝


いい香りで目がさめた。 左にいつも置いてある丸椅子を、壁際までさげて、壁にもたれている老人がいた。 その老人は、茶系のコールテンのズボンをはき、ベージュよりも少し濃い色の、 ハーフコートをはおり、赤いマフラーを巻いている。そして、コートと同系色のハンチングには黒いラインが、7~8本ひいてある。 彼はゆっくりとパイプ煙草をくゆらしている。 視線はうなだれ、ちょうどおれの寝ているベッドの下の床あたりか。



4~5分のあいだおれはじっと老人をみていたが、老人は下を向いたまま身じろぎもしなかった。すると、奥から中年の赤い着物を着たご婦人が、学習院にでも通っていそうな子供の手をひき、あらわれた。 「あなた!先生がいらしてよ!お話合いなさるんでしょ!」 老人は、無言でポケットから袋をとりだし、パイプの灰を捨て、またポケットにパイプと一緒にしまい込んだ。そして、ゆっくりと立ち上がり無言のままご婦人の後を追い奥へ去って行った。 それから10分位で、老人、ご婦人、○○先生の順で奥から出てきた。 出入り口で止まって、挨拶したのはご婦人だけで、老人はスタスタと、無言のまま先へいってしまった。 どうやら、相当お冠のようである。ご婦人はそそくさと挨拶し、老人はの後を追った。先生はふかぶかとお辞儀をした。



次の晩から、イケメン医師と若いナースのふたりは、堂々と帰りをともにするようになった。医師が風呂に入れば、新しいシャツを用意して待つようにもなった。 他のナースの反応は、ご想像の通りである。

その後、2~3日でおれは普通病棟へ帰還した。

2010年9月20日月曜日

ICUな恋

担当の、若いナースは、やはりICUで一番若いナースだった。 この彼女は絶対あやしい!いつもベッドの左に気配を感じるのだが、 この時も、ひだりに気配を感じ、ふりむくと、おれの鼻の頭に、ピタリと、当たるものがある!すると、彼女が、左45度にかまえ、右手をまっすぐおれの頭に向けている。その手の先には、長さ15㎝位、先端は、単語カード位で角は丸くしてある。手元に向けて細くなっている。 そして、その黒漆に螺鈿細工で桜吹雪が描いてあり、素晴らしいものである、それをおれの鼻先にあて「なんだ」と、おれがいうと「ふん、甘いな」と、いったまま去っていった。




このナース、夜勤の明け近く、部屋の真ん中の通路を、黒漆のなにかをもって、端から端まで、「えい!えい!えい!」と気合をいれて、素振りをしている。たまに、先輩にみつかり「またやってる!やめなさいよ」と、叱られている。この人は実在するのだが、やってることは おれの、幻覚だろう。



そして、もうひとり、わからない人物がいる。ここの主任医師である。 かなりのイケメンである。しかし、白衣を着たところをみたことがない。いつも、高そうなスーツ姿である。 この医師は、朝、早く出勤し帰りは夜中の12時半である。 新人ナースとこのイケメン医師が、アヤシクナルノデアル。



まず、このICUにはボイラーがあり、風呂もある。 時々、ナースたちもこの主任にボイラーをつけてもらい、夜勤明けなどに入って帰るようだ。



ある日、雨の夜、この主任がびしょぬれになって帰ってきた。 若いナースは、みんながいるにもかかわらず彼の世話をやきだした。 彼が風呂に入ってる間、脱いだものを必死にアイロンで乾かしている。 そして、この後、事件が起きる! アイロン掛けに感動したのか、自分への彼女の愛に応えようとしたのか?朝までの夜勤のふたり、12時すぎに、車に乗り、どこかへいってしまった。 残されたNsたちは憤慨し「ほんとにいったの!」「誰も行先ききかなかったの!」彼女たちは絶対許さない!に、意見は一致! 呼び出されたのが、主任の上司、ICUの室長である。彼は落ち着いていて 「なにかいっていかなかったかい?」「う~ん、しょうがないなぁ・・」と、ケイタイを取りだし呼び出した。 30分ほどでふたりは、うなだれて帰ってきた。 主任は、室長にお叱りをうけたあと、どこかに閉じこもってしまった。彼女は、みんなの冷たい視線のなか、担当患者のおれのそばから、動かなかった。



ここからふたりはますますヒートアップする!!!

2010年9月19日日曜日

ICUの話

 イラン人とみのもんた
術前に、「手術が終わったら、すぐICUにいって透析をするよ。」 と、担当の医師に、言われていた。 麻酔から覚めると「透析のベッドがたりないので、○○病院で透析するからね。救急車で送るからね。」と、言はれ、搬送された。 その病院につくと、すぐに、風呂にいれられた。 その風呂は、ドラム缶風呂が3から5くらい並んでいて、窓が広く、青空がのぞいている。そして、あたりは湯気でもうもうと霞んでいる。 患者たちは、皆、はだかでベルトコンベアで、無言で運ばれてくる。 ドラム缶にはいると、なぜか、全員、プッカプッカ上下する。 おれも、ドラム缶風呂にはいり、ぷっかぷっかしたあと、透析室に連れられて行った。その透析室は、病院玄関の脇にあり、まるで玄関脇のサテライトスタジオみたいで、ちょっと変わっていた。



中にはいると、奥に4ベッドの透析室があり、ブルーの床屋さんのような服をきた先生が待っていた。 そして、「あぁ・・。まっていたよ。」と言って、透明なランドセルに液体の入ったものを背負わされた。 そして、そのランドセルから伸びる管の先に酸素吸入器のようなものをつけられた。そして、そのランドセルに入った液体が、おれのマスクに 充填された。その床屋のような医師が言う「しっかり息をすってごらん」おれは、そのオロナミンのような液体をおもいきり吸い込んだ! しかし、むせこむようなこともなく、苦しくもなかった。



「先生、これなに?」と聞くと、透析じゃないか、と一蹴された。 「いつまでやるの?」おれはしつこく聞いた。「一日じゅう」と、そっけない。おれは三日四日寝てないような眠気に襲われた。 目を覚ますと、なにやら外が騒がしい! イラン人らしき人々が玄関前にバリケードを築き、病院まえの道路に横づけした機動隊に向かい気勢をあげている。 「けいさつはカエレー!!!、イラン人をばかにするなー」 警察も負けてはいない。「ただちにかいさんしなさい!!!」 と、いって盾をかまえて進軍してきた。 するとイラン人たちは、ますます興奮して、どこから持ち出したのか、 投石をはじめた。警察は後退し、両者にらみ合いとなった。



この事件は、報道され大事件となっていた。おれは、こりゃ~、テレビもくるな。と、心のなかで思った。すると、早速、テレビクルーがやってきた。まず、前のりのディレクターが、透析室に乗り込んできた。 先生が抗議すると、「病院には許可をとってあります!」なかなか、やり手のようだ。長い髪をうしろに束ね、黒いスーツに身を包み、てきぱきと機材を運びいれ、男たちに指示をだしている。 そこへ三橋看護部長が現れ、なにやら女ディレクターと打ち合わせを始めた。そこへサングラスをかけたこわもての男が現れ、その後ろから、みのもんたがやってきた。彼はさすがでフアックスをペラペラとみて、 看護部長と二言三言話すと、取材を始めた。



その場面はすぐにLIVEで放送された。おれはなぜか、親父が心配して、来てくれるんじゃないか?と考えた。 すると、2時間くらいで親父がやってきた。親父がはおれに「こんな問題のある病院でだいじょうぶか?」と、いった。おれは手術をしてくれた医師を信頼していたので「○○先生がみててくれるよ」と、親父にいった。 取材をおえた、みのもんたは、親父と話し始め、意気投合!!! なにやら、酒の話になり「イッパイいきますか?」と、話がまとまり、タクシーを呼んでふたりでどこかへのみにいってしまった。

テーブルに親父のケータイが残されていた。



すべて夢のお話です。たぶんね。

2010年9月12日日曜日

9・11アメリカ同時多発テロから9年。

高校時代。

高校のときの一週間。


月曜日:朝8:30徒歩で登校。

    6時間授業。

    部活。

    5時の透析に間に合うように下校。

    衣笠十字路まで歩いて横須賀中央行きのバスで病院へ

    5時半頃から透析開始。食事。6時間透析。終了11時半。

    そのまま、病棟の空きベッドに寝る。

    

火曜日:病院で朝食。病院から登校。

    朝8時横須賀中央からバスで衣笠駅、徒歩で登校。

    6時間授業。部活

    友達の家に行く。

    夜8時頃帰宅。夕食。入浴、就寝。



水曜日:朝8:30徒歩で登校。

    6時間授業。

    部活。

    5時の透析に間に合うように下校。

    衣笠十字路まで歩いて横須賀中央行きのバスで病院へ

    5時半頃から透析開始。食事。6時間透析。終了11時半。

    そのまま、病棟の空きベッドに寝る。

    

木曜日:病院で朝食。病院から登校。

    朝8時横須賀中央からバスで衣笠駅、徒歩で登校。

    6時間授業。部活

    友達の家に行く。

    夜8時頃帰宅。夕食。入浴、就寝。



金曜日:朝8:30徒歩で登校。

    6時間授業。

    部活。

    5時の透析に間に合うように下校。

    衣笠十字路まで歩いて横須賀中央行きのバスで病院へ

    5時半頃から透析開始。食事。6時間透析。終了11時半。

    そのまま、病棟の空きベッドに寝る。



土曜日:病院で食事。病院から登校。

    朝8時横須賀中央駅からバスで衣笠十字路。徒歩で高校へ。

    4時間。友人と下校。友人の家に直帰。

    夕飯時までお邪魔。帰宅。



日曜日:一日中友人と遊ぶ。



高校2-3年の時のスケジュールですね。毎日これでした。何の迷いも無く同じ一日でした。

1年の時は、腹膜透析で12月に移植で入院するまでタクシーで家に帰っていたんですけど、

病院側の配慮で一泊して朝食食べてから登校できるようになりました。



勉強は大嫌いでした。学校以外ではほとんどしなかった。

毎日、友人家に行ってました。毎日学校へ行ってました。毎日、病院へ行くか、病院から帰るかでした。

透析後の病院ホテルは、止血が終わるともう、消灯後の病棟へ降りていってNS-ステーションに声をかけます。

「今日のベッドは何号室ですか?」すると懐中電灯をもってNsが出て来てくれて案内されます。

これが横着な奴だと「○●室の何番目。」と、そっけない奴がいるんですよ。

大体、空ベッドでシーツの新しくしてあるんですが、たまに退院したばかりだったり、外出中のベッドだったりで

シーツが乱れたりしているんですよ。そうすると、枕にポマードのにおいがして寝付けなかったりしましたね。

そういうことがあるもんだから、ある日、そっけない奴に何号室の何番目とか適当に言われ、ベッドにもぐりこん


だら、なんとなく、暖かい気がした。そしたら、トイレに行った患者さんが帰ってきて

「お前、誰だ!人のベッドで何してんだ!」大騒ぎになったことがある。



この頃の透析室は明るかった。まだ、余裕もあり、みんな若くて希望にあふれていた。高齢の人はいなかった。

一度、死を覚悟し透析で救われ仕事や家事が出来るようになり喜びにあふれて活気があった。

看護専門学校が併設されていて新人看護師の希望先は透析室が一番多かったと言う。

今では信じられんことですね。今は、結構、透析患者、煙たがれてますからね。


僕は病棟に泊めてもらって夕食と朝食、1泊2食つきだったんですが請求はなかった。

透析室は倍倍ゲーム増床し大きくなっていった。



このまま、この楽しい時期が続くと思われたが、爆発的に増えた透析患者数により、状況は一変した。

サテライト式のクリニックの登場。

これでアットホームな病院の透析時代は終わる。








    

2010年9月11日土曜日

セミナイト(準夜)

セミナイトは中学に入学したのを機会に大人に混じって入れてもらった。
そして、高校、専門学校、仕事を始めて、途中オーバーナイト5年やって以外は準夜だった。
最初はコイル型透析器、洗濯機に回路をぶち込む感じ。回路に血流が流れ出すと鼻がツーんとして、目が充血した。
中3の5月の修学旅行、2泊3日の京都・奈良。母が随伴することで許可された。暑い5月だった。その夜、シャントが腫れて高熱が出た。
何とか最終日まで耐えたが学校へ帰着すると同時に待ち構えていた救急車に乗り換えた。
シャントは感染していて人工血管は取り除かなければならなかった。

入院は長引き、先生の決断はまた、腹膜に戻ろう、と言う事だった。僕は抵抗した。医師にでなく母に。。。
「もし、腹膜透析に戻るくらいなら、僕は退院と同時に観音崎の灯台から身を投げて死ぬ。」
母は静かに「そんなこと言ったってしょうがないじゃない。。。今は頑張ろうよ。」
2学期からは腹膜透析になった。学校が終わってすぐ、病院へ行って透析を開始しても腹膜透析は長く夜の11時くらいにならないと終わらない。しかも毎晩。母は歩いて迎えに来てタクシーで帰った。11月の後半、木枯らしが冷たく吹く頃、透析の帰り、母が僕にポツリと言った。
「のりちゃんがちゃんと腹膜受けてくれてよかった~。ホントに飛び込むかと心配しちゃったわ。」

1974年12月13日(金)この夜も母は迎えに来た。その夜は妹も連れてきた。横須賀中央駅まで歩いていく途中におでんの屋台があり妹が「ウインナー食べたい。」と、ねだった。
いつもなら母は「やめなさい。」とたしなめるのだがその夜は「のりちゃんも好きなもの食べていいよ。」 妹はウインナー、僕ははんぺんを食べた。見上げると皆既月食から回復しつつある半分赤黒いような月が出ていた。母が僕の病院に迎えに来たのはこの世が最後になった。

翌日の土曜から母は友達と箱根旅行へ行き、12月15日、日曜の昼、小田原の喫茶店で脳内出血でなくなった。享年42歳だった。

2010年9月9日木曜日

オーバーナイトな恋。



今はこんな僕でも夜間透析をして昼間フルタイムで働いていたときがあります。

一応、時間は9時~6時の9時間透析でした。

でも、自分の場合、穿刺が最後くらいになるので9時半~6時半でしたね。

で、朝食が出ました。其れを食べて出勤ということですね。

火曜と金曜の週2回でした。中2日と中3日がありますが、土日月火の3泊4日の旅行などが出来、若さもあって一番、楽しい時期でした。昭和の終わり位から平成3年まで5年間くらいだったかな。

穿刺場所は右の太股のシャントに一本と左手の静脈に一本のスタイル。

このスタイルは12年続いた。人工血管を持たせるための苦肉の策だ。

おかげで12年間の楽しい青春時代を過ごせた。(ちょっと遅い青春だったが・・・)



この夜間透析なんですが、やっぱり圧倒的に男性が多い。当時の看護師は若い。そこで恋が芽生える。

穿刺が済んでしばらくすると消灯になる。透析室は結構暗くなる。

ベッドもまばらで隣との距離の離れている。お目当ての看護師さんが当直なんて夜は寝ていられない。

夜は血圧も測らないし若い元気な患者ばかりなので異変も無い。

朝、終了の時か警報がなった時しか話せる機会がない。あとはナースコールで呼び出すか、だが、当直は二人いるんだよね。どっちがくるか分からない・・・・

そこは病院側も分かっているのかかわいくて人気のある看護師にはこわもての看護師を組ませる。

一か八か「えいや~!」とコールを押す奴もいたにはいたが大抵、強面看護師に、

「たいした用も無いのにナースコール押すんじゃな~い!!!」と、叱られる。

そこで、前にも書いたがラインを握り締めて警報を鳴らし看護師を呼ぶ方法だ。

これは、警報だから必ず来るし、しかも叱られない。でも、やはり、こわもてがくる場合がある。

で、夜通し起きていてチャンスを狙う。さっき強面が着たから、今度はあの子だ。

それ、ってんでラインを握り締める。すると、あちらこちらで警報が鳴る。

考えることはみんな同じってことで・・・・><:

それでも、みんな頑張ってこの時間帯の透析からは結構、ゴールインなさった方々多いんですよ。

僕は失敗したけどね。

2010年9月5日日曜日

2010年9月3日金曜日

@dialysis40, 10/08/30 1:13

norifumi (@dialysis40)
10/08/30 1:13
ICUから観察病室に入った。隣の部屋は個室らしい。深夜になると電話をかけている。聞くとは無しに聞こえてしまう。「あなた?ワンちゃんに代わって!あ〜〜、ママに会いたいんの〜!う〜ん、待ててね、もうすぐ帰るからね」毎晩電話して居た。しかし、隣の部屋は存在しなかった。


渡辺典史(^ー^)ノ

2010年8月30日月曜日

2010年8月25日水曜日

病歴

現在のクリニックへ通院するようになってからの主な既往症歴を
書き出してもらいました。

’65 9/6小児腎炎から慢性糸球体腎炎発症 http://blogs.yahoo.co.jp/kcbxy890/34545334.html


’69 9/27尿毒症により腹膜透析開始 http://blogs.yahoo.co.jp/kcbxy890/34549186.html

’70 4/6血液透析開始 http://blogs.yahoo.co.jp/kcbxy890/34559005.html

横須賀にて通院。
1969年9月~1999年11月



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

現クリニック’99 11月23日初診~



’762腎移植(父ドナー、OP当日尿量0 http://blogs.yahoo.co.jp/kcbxy890/28866912.html

’80 尋常性乾癬

’94 7左大腿骨骨とう壊死

7/27人工骨とう置換術

’95 2意識消失発作(脳波、CT;np)

’99 3僧帽弁閉鎖不全

’99 6蜂窩織炎

’01 1/30左変形性膝関節症 全置換術

    9/18右〃  〃     〃

’02 9消化管出血

’04 6敗血症ショック

’04 8右大腿動脈穿刺部感染性動脈瘤破裂

     8/20右大腿動脈瘤切除

       動脈端々吻合再建術

’0410左手関節内シャント造設

 々  10/22尋常性乾癬症悪化UVB照射

’06 1左大腿骨骨頭部(人工骨頭部)

      1/27他 計3箇所の骨折ope

       入院中仙骨部褥創形成

’06 6左手関節内シャント造設

’0610左上腕グラフト造設

’10 3左上腕グラフト(PTA 血栓除去)

 〃  8 〃  〃  延長

介護担当者会議。

要介護認定を受けると介護度に応じた介護サービスを受けることができます。




通院送迎タクシー、身体介護、家事援助、訪問リハビリー、訪問看護、介護用品のレンタル、



など、さまざまなサービスがあります。



利用者の障害に応じてケアマネージャーが介護利用計画をたて点数を算定します。



サービスが多岐にわたるとそれぞれの担当者を集めて現在の状況やこれからの介護方針などを



提案、連絡するため担当者会議なるものを開きます。



もちろん、ケアマネさんが司会です。



「のりさんの現在の状況はいかがですか?皆さん、ご意見は有りますか?」



から始まって、さまざまな意見が飛び交います。



訪問看護師

「入院する前から比べると足の運びが重くなったような気がします。貧血のせいもあるでしょうけど」



から、議論が白熱してきます。



その間、僕は借りてきた猫状態。



「どうですか?のりさん。」   「はあ・・・・」



送迎タクシーさん。

「今日は玄関の段差を下りるのもつらそうでした。病院の中もついてあげたいのですが、






許可されていません。何か方法はありませんか?」



家事ヘルパーさん。

「貧血だと言うのでコンビニ弁当ではなくて何か栄養のあるものを作ってあげたいんですが?」



「どうなんですか?」     「はあ・・・・・・」



ますます議論は盛り上がってきます。



ケアマネさん。

「のりさんの目標は、お一人で外出したいと言う事ですよね。訪問リハさん如何ですか?」



訪問リハさん。

「階段は下りるのは結構出来ますが登るのはまだまだ掛かると思います。」



電動車いすを使う、ベランダを改造して昇降機を取り付ける、とか、



ベッドを電動にしたらどうか、とか、益々議論は伯仲し、電動車いすの昇降に向けて、



行動を開始することに。



ケアマネさん。

「のりさんの最終目標はハワイ旅行ですよね?時期はいつですか?」



・・・・え?え~~?今週のオフ会も中止したのにハワイですか?・・・・・・



「い、いや~~、来春くらいかな?・・・」



ケアマネさん。

「来春のハワイに向けて頑張るそうです。」

看護師「・・・・・・・」ヘルパーさん「・・・・・・」タクシーさん「・・・・・・・」



「い、いや~~~、国内からでいいよ。宍道湖の夕陽とか。」



ケアマネさん。

「夕陽?秋ですね。11月?ハワイは春ですね。宍道湖11月、ハワイは来春だそうです。」



・・・・・・・・おい、おい、ホントかよ~~~。・・・・・・・・



ケアマネさん。

「それではベランダの改修を大家さんと交渉して頂いて国内が11月、ハワイが春でよろしくお願いします。」



ケアマネージャーさん、どうやら、マジらしいです。

2010年8月23日月曜日

22日の出来事。

本当に恥ずかしい事なんですが、昨日、救急車を呼んでしまいました。
自分では本当に苦しかったんですよ。
でもこんな事で救急車、呼んでもいいのかな?と逡巡しました。

透析があると、なかなか下剤って飲みにくいんですよね。次の日透析が有ると飲むのは控えるし、毎日決まった時間に出ればよいのだけど食が細いので2-3日に1回、出ればよいほうでおのずと硬くなります。それで、4-5日ほどでていなかったんです。土曜日に明日は日曜だから下剤を飲んででも出しとかなきゃ!と思って下剤を飲んで寝ました。

普通なら、朝には快便が~!ところが今日に限ってでない?
昼を過ぎて下剤特有のおなかの痛みがやってきたがでない?
それどころか、ものはもう下まで下がりきって今にも出そうなところにあるんだが出ない。。。。
腹は痛い、出口も痛い、脂汗は出る、力むとくらくらする。なんせHb7.5!Ht23!!!
ふらふらしながら、何度かトイレを行き来していたが、とうとう限界に。

おしりにペーパーをつめてやっとこベッドに戻り横になる。息ははあはあ、油汗は出てくる。
明日は透析だからそれまで我慢すれば、何か対処してくれるだろう。。。。
と思っていたが、我慢できなくなってしまった。こんなことで・・・思ったのだが救急車に連絡をした。
3分ほどで到着した。退院4人。てきぱきと隊長らしき人が指示を与える。
保険証は?おうちの鍵は?お財布は持ちますか?携帯ももっていますか?ご家族に連絡は?
1分も掛からず準備完了!ハンモック状の物に載せられ救急車へ。1件目、病院搬入要請、重傷者処置中のためNG!2件目、3件目NG!4件目もNG!5件目、戸塚の病院が受け入れ。
出発する事になった。バイタルもすべて異常なし。腹痛のみ、原因も分っている。俺は恥ずかしかったが隊員は優しかった。「妹さんに連絡取れましたからね。もうすぐ着きますよ。」

戸塚共立第一病院に搬入された。症状も原因も既往歴もすべて隊員が医師に報告してくれた。
医師も穏やかに対応してくれて、看護師もとても丁寧だった。俺はもしかしたら皮肉の一言も言われるんじゃないかと思ってて言われても詫びよう、位に思っていたのだがホントに優しい対応だった。レントゲンで確認して浣腸をかけて俺は昇天した。看護師が医師に「たくさん出ましたよ。」医師は静かに「よかったですね。」本当にお手を煩わせて申し訳ない。

会計を済ませて妹を待つ。仕事を切り上げて妹がやってくる。
事務室に「妹が来ましたんで、帰ります。ありがとうございました。」と、声をかけると、事務室にいた全員が玄関まで出てきてくれて送ってくれた。まるで長年入院していた患者の退院みたいに。
本当にアットホームな対応だった。この病院一度入院してみたくなったほどだった。
上大岡救急の隊員の方も本当にありがとうございました。

2010年8月19日木曜日

外シャント。

小児科と内科。


12歳だった僕は小児科に入院した。透析に関しての指示や治療は小児科を通して伝えられる。当時、透析治療と言うのは同時病院内であっても理解度は少なかった。病院食にしてもとても透析食にはふさわしくないものが平然としてあった。たぶん、腎不全保存期、低蛋白で無塩に近いもの。カリウムは豊富に取らされた。バナナ、りんご、牛乳は毎日付いてきた。透析医と透析室の看護婦などはこの矛盾に気が付いていたようだが、栄養には口を出せなかったようだ。2年目くらいに透析室担当の栄養士が着て食事内容は激変し栄養指導なども盛んに行われるようになり、食事指導も厳しいものになっていった。



しかし、主治医はあくまで小児科医であって透析は併診扱いだった。これが僕らに災いした。小児の透析患者は僕しかいなくて小児科の栄養指導は遅れていて相変わらず腎不全食が出されていた。透析室にも小児科からおやつといってりんごなどを持ってくる。ほかの患者の前でりんごを食べる。不自然な状態が続いた。



そんなある日、事故が起きる。静脈側の縫合部が感染し抜けやすくなっていたらしく自宅で就寝中に外シャントが抜けるという事故が起きた。朝、気が付くとパジャマも布団も血まみれ!シャントを包んだ包帯からは未だに血が垂れている。僕はびっくりして母を呼んだ。これを見た母も動転した。小児科の担当医に電話をするか、透析医に電話するか、悩んだが、とにかく、救急車!ということで救急車で病院へ搬送してもらう。その間も血が流れ続ける。隊員も動転するが腕の付け根を圧迫するか一向に出血は止まらない。ようやく、病院に到着し待ち構えていた当直医が出血部分の包帯を解き確認すると、静脈側のカテーテルが抜けているだけ。カンシでパッチン!で血は止まった。しかし、ナンリットル血が出たかわからない。僕はまたまた気を失った。



この事件で小児科と、透析医との話し合いが行われ、このような事故の際、速やかに透析医側の指示を伝わるように当時、中学生ではあったが透析患者として内科担当医が主治医となった。



この外シャントの時代は長くは無かったが2-3年だった思うがすぐ詰まってしまって、毎月のように作り直した。手術の看護師が顔なじみになって「あら、また来たの?」なんていわれるようになった。それは、昭和51年のボーバイン・グラフトを入れるまで続いた。両手、両足、血管をことごとく潰していった。
外シャントOPの傷跡。

つづく。

1970年4月6日(2)

初めての透析

透析室はベッドが4台。広さは8畳分か10畳分、ベッド4台でいっぱいいっぱいな感じ。ベッドを壁際に口の字の様に配置して真ん中にキール型ダイアライザーが2台置いてある。この2台のダイアライザーと1台の監視装置を4人の透析患者が共用する。監視装置(コンソール)は大きな木製キャビネットで数々のメーターがついている。静脈圧計、透析圧計、流量計。そこから供給される透析液は2系統。患者は4人。透析器は2台。1系統の透析液ラインに2台の透析器が繋がれた。そして1台の透析器には2人の患者の血液が送り込まれる。監視装置から出た透析液が最初に通る透析器を上流、次に通る透析器を下流といった。積層型の透析器の上の層を上層、下を下層と呼んだ。透析時間は朝10時から夜8時まで10時間。通ってくる方は県内各地に及んでいて1時間、2時間、かかってくる方もざらにいた。まさに残業つきの大仕事。中には家族が車椅子で送ってきて一度帰ってまた迎えに来るという方もいてまさに家族の協力がなければ透析は向け続けることが出来ない治療だった。






シャントは当時、全員が外シャントでうでの静脈と動脈にカニューレが挿入され真ん中でコネクターで接続されてシャントが出来ていた。透析するときはそこをはずしてダイアライザーのAとVに接続しダイアライザーに血液を流す。血液ポンプは使用しない。患者の血圧で機械へ流れていく。カンシをはずし血液が勢い良く回路を流れていくと頭がくらっとした。



この頃、もう透析の仕事は看護師に任されていた。技師もいたが今のように治療にかかわる臨床技師ではなく本当の機械や賭しての技師が一人いた。看護師は二人、外来看護師扱いで勤務は9時ー4時半。10時に透析を開始してまもなく昼食がでた。そこから終了まで8時間、長い時間だった。夕方4時半になると看護師二人は透析室のブラインドを下ろし帰ってしまう。透析に繋がれたままの患者4人が残される。

6時間を過ぎたあたりでちょうど不均衡症候群が出てくる時間帯。4人はお互いを監視しあった。いきなり足がつって大声で叫ぶもの。仰向けのまま食べたものを噴水のように吐き出すものもいた。その度、ナースコールで離れた病棟にいる看護師を呼び看護師は其れから医師を呼んだ。この時、一緒に透析をした4人はまさに一蓮托生。

ここ状態は翌年、1971年春、新人看護師が一挙に8人入ってくるまで続いた。その年から看護師がどんどん入ってきた。医師も増員され透析バブルがやってくる。

2010年8月18日水曜日

1970年4月6日透析開始。

腹膜透析を開始した病院は横須賀の繁華街の真ん中にあり、裏は絶壁、敷地も継ぎ足しで病棟が乱立し渡り廊下で繋がれていた。透析の担当医は内科医だが12歳だということもあり入院は小児科に入った。ここでは国立と違い病棟は小児科病棟で子供しかいなかった。入り口も単独になっていて面会も両親と親族に限られていた。僕はまた、二人部屋でひとり、大きな腹膜透析器を入れてあるためベッドもひとつしかなかった。3日間ほど意識が無かったと言われたが自分としては眠ったり起きたりしている感じだった。天井の様子で病院にいるという事も理解できていたし人の言葉も時々聞こえていた。何らかの治療を受けていることも分かっていた。


10月にはいると容態はすっかり安定した。親父と病院の間でどのような話合いがあったか、など知る由も無かった。僕は快方に向かっていてそのうち退院できるものと信じていた。毎日、腹膜透析は続け1週間ぐらい過ぎた頃、僕は尿意を催して看護婦さんを呼んでトイレへ連れて行ってもらった。ところが尿がでない。何度も呼んで行ってみるが一滴も出ない。僕は不安になり回診に来た医師に訴えた。「先生、おしっこが全然でなくなったよ。」僕は大変なことだと思って訴えたが医師はただ黙ってうなずくだけだった。




正月に一時帰宅したと思うが入院は続いた。ある日、内科の透析担当医がやってきて「のりちゃん、もっといい方法があるんだよ。このままじゃ退院できないしもっといい方法でやれば退院も出来るしきっと学校も行けるよ。」僕はその言葉が病気が治って学校へ行ける治療と信じ「やります。」と返事をした。1970年の3月くらいだったと思う。その治療をするために手術が必要といわれ始めて手術を経験した。手術室は病棟の一番上の階にありエレベータを降りると大きな扉があり、そこを通ると広い廊下が真ん中にあり両側に小さな扉の無い部屋が沢山あった。その中の一つに入り着替えをして狭いベッドに寝かされた。床はコンクリートで頭上には例のライト。壁には銭湯のようなタイルが張ってあった。この最初のシャント手術は簡単に終わったと思う。それから40年もこの部屋を行ったりきたりする羽目になるとは思ってもいなかった。



最初の透析は1970年4月6日。

小児科病棟から車椅子で向かった。立て替えたばかりのきれいな小児科病棟のある6病棟から1階へエレベーターで降りて売店の角を曲がると木造の学校のようなくらい渡り廊下が結構な傾斜で登っている。突き当りには窓に鉄格子がはまった分厚い鉄の扉。その手前を左にぽっかりとまた渡り廊下があった。内科病棟のある3病棟はこの先にある。その手前渡り廊下を半分ほど行ったところに渡り廊下にへばりつくような形で長い部屋がある。そこが透析室に供せられていた。いかにも急増された部屋と言う感じ。入り口を入ると体重計がある。力士やボクサーが測るような分銅を右にやったり左にやったりして50gまで測れる体重計。その体重計のある柱には一枚の漫画が貼り付けられていた。ワイシャツ姿の男が一人、ぐるぐる巻きにされて杭につながれている。そばには水道があって滴がたれている。男はのどが渇いているらしく口を開け舌を出して飲もうとしているが縛られていて届かない。そういう絵だった。この絵の意味は後で思い知らされることになる。
1:体重計 2:水槽のある大きな部屋。 3:監視装置 4:キール型ダイアライザー

この透析室の時代を鶏小屋時代。
ここを経験した患者さんやスタッフを鶏小屋世代と人は呼ぶ。

つづく。

2010年8月17日火曜日

1969年、透析導入(3)

こうして、市内唯一の人工腎臓治療を有する病院に搬送され、命をとりとめた。
このとき、僕は意識不明でもちろん、腹膜透析がどういうものか、何の説明設けていない。すべてが両親と病院側の交渉で行われた。ここからは、父親がずっと後になって語ってくれた事です。

病院に到着して当直医に診てもらうと、採血結果などが出る前にどういう状況かを把握したそうです。そして、人工腎臓担当の医師が呼ばれたそうです。呼ばれたと言ってもこの医師は一人でこの病院の人工腎臓治療を取り仕切っていて夜間も病院に泊り込んでいたそうです。彼、ひとりでオーバーナイト透析もやっていたそうです。まだ、若く野心的、髪はぼさぼさ、一見、野暮ったいように見えるがさつなおじさん。そんな印象の医師でした。
彼は呼ばれてきて僕を見るなりこう言ったそうです。
「この状態で家で寝かしていたぁ!?何でもっと早く、連れてこなかった!はっきり言って手遅れですよ。」
このときの僕の状態はまず、腎不全による尿毒症、高カリウム血症、栄養失調、脱水症状、どれも重篤な症状だったそうです。緊急的救命措置が施されたあと、両親は医師に呼ばれた。
「息子さんは残念ながら助かりません。ただひとつだけ助かる方法があります。人工腎臓による治療です。血液透析と腹膜透析がありますが当院ではまだ小児には導入したことがありません。しかし、これを導入すれば息子さんの命は一時的にでも回復することができる、と思います。いかがなさいますか?」
父は
「どうにかこの子の命だけでも助けてください。なんでもやってください。」

そこから僕の透析人生は始まったのだが親父は僕の治療が続く中、さらに病院側に呼ばれた。病院側の説明は
「この治療は大変に治療費が掛かります。健康保険は適用されますがお子様の治療の自己負担分だけでひと月に20万以上は掛かると思います。それも何ヶ月掛かるかわかりません。あなたは支払い能力がありますか?」
父は
「なんとしてでもお支払いいたしますので治療の継続をお願いします。」
病院
「失礼でございますが人工腎臓装置には限りがあり、たくさんの腎不全患者さんが順番を待っています。皆さん、一刻を争う状態です。当院としてはこの先、あなたのお子様に人工腎臓治療を導入しあなたに費用の御負担をお願いするわけですが将来にわたって御負担いただける保証はいただけますか?」
父は
「早急に上司と相談して御返事いたします。まずは治療の継続をお願いします。」

親父は当時、地方公務員。財産はなし。貯蓄もなし。しかし、身分は保証されている。親父は上司と相談して、直属の上司、健康保険組合長、人事課長、3人を連れてさらに病院と交渉を持った。
病院側は言う。
「腎不全の患者さんが誰でもこの治療を受けられるわけでは有りません。われわれはこのお子さんの保護者であるあなたが将来にわたってこの費用を支払い続けることが出来るか、確約が出来ない限りこの治療を継続することは出来ません。支払いは確約して頂けますか?」
人事課長が話し始める。
「私たちは雇用主としてこの方のお子さんを守る立場にあります。彼は公務員でありこの先も身分は保証されています。給料も安定的であり退職金も算定できます。どうか、彼の息子さんの治療を続けてあげてください。」
健康保険組合長も
「私の方も全面的にバックアップすることをお約束いたします。」
病院側はそれを聞きさらに続けた。
「それでは治療費はどのようにして調達して頂けますか?」
人事課長は
「話し合った結果、現在、彼の給料では治療費を払い続けられません。しかし、中間手当て、年末手当、退職金の前借、健康保険からの借り入れ、あらゆる制度を使って支払いできると思います。」
病院側は
「それではみなさんの連名で誓約書を頂けますか?」
何をもってしても支払う事をお約束いたします、という誓約書が4人の連名でしたためられ病院側に渡された。
この話し合いで僕の治療の継続が決まり僕は今も生きている。
もちろん、この後、患者会が立ち上げられ運動が始まり国会請願など政治的動きもあって人工腎臓による治療費の自己負担分は公費で支出されることになり、親父の負担が解消されたのだが、2年分の自己負担分を完済するまでに10年を要したそうです。

1969年、透析導入(2)

気づいたらまた、病院のベッドで天井の石膏ボードの穴の数を数えていた。あるっきり、意識が無い訳ではなく、医師がのしかかって「のりちゃーん!分かる?これからお腹に穴を空けるからハイ!っていったらお腹に思い切り力を入れてね。ハイ!」バスっという感じで腹に穴が開く感じがした。「まるきり意識が無いわけじゃないんだな。」俺は全部聞こえていた。

1965年の入院から4年後の1969年9月。
またまた、2学期が始まって最初の週。登校途中、僕はどうしても学校へ行きたくなかった。さしたる理由が無い。億劫。だるい。そんな感じ。でも、だるいから行きたくない。そういう理由では親に許可をもらえない。通学路途中のバス停で僕は考えあぐねていた。そこで思いついたのが、のどの奥まで指を突っ込んで「おえ~」として気持ち悪くしてつばを吐き、家に戻って「バス停で気持ちが悪くなって戻した。」と言って学校を休む。
この作戦は成功し僕は休みの許可をもらえた。しかし、予想通りではなかった。僕は其れきり起き上がれなくなってしまった。体に力が入らない。動くのがやっとの状態だった。ところが尿量だけはでる。トイレにおいてある尿量計測のための一升瓶を2回は空にした。其れも清酒のようにきれいな尿だった。2週間ほどそうやって寝ていただろうか。食べ物もほとんど食べていない。そのうちに異様な感覚が現れた。夜、居間から離れた6畳間に寝ていて居間の家族たちの様子をぼんやりと眺めているとストップモーションのように止まって見える。家の者が座ったり立ったりしたまま止まって見えるのだ。ふっと気が付くとまた動き出したりまた、止まって見えたり。ぼくはなんとなく面白くなりそんな家族の様子をぼんやりと眺めていた。
すると、止まっていた母がこちらに気づいた。顔が少しずつ近づいてくる。「のりちゃん!なにしてんの?黒目を戻しなさい!ふざけてやってるの!?」どうやら僕は白目をむいているようだった。母の声はしっかり聞こえていた。僕は意識して目の玉を正常に戻そうとした。「そうよ、それでいいのよ。そうしていなさい。」そういって、母はまたコマ送りのような感じで去っていって電話を掛けだした。主治医に異常を知らせているようだ。
するとこちらの様子を注視しながら電話をかけていた母が受話器を投げ出しこちらに駆け寄ってきた。
今度は無言で僕の頬をはたく。「目を!目を戻しなさい!」母が大声を出す。口に握りこぶしを突っ込んでくる。舌をつかむ。そうして割り箸に布を巻いたものを僕の口に突っ込んだ。その辺で意識が無くなった。
意識は戻ったりなくしたりを繰り返していた。国立病院の部屋と同じような天井の石膏ボードが見えた。頭の中で僕は入院したのかな、と言うのは感じていた。在宅療養中に読んだ本で知った尿毒症という文字が浮かんだ。僕は尿毒症を起こしたのかな。救急搬送でこの病院へ行き、1969年9月27日に腹膜透析で命を救われたのは幸運だった。
この時代、腎不全で尿毒症を起してなお救われる、と言う機会は皆無に等しかった。うちの親父がここで人工透析をやっている医者がいるのを知っていたとか、救急隊員が機転を効かしてこの病院へ連れて行ったわけでもない。しかし、偶然にこの病院へ行ったわけではない。母の手元にはこの病院への紹介状があった。それは、僕が寝込んでいたときに往診に来てくれた医師からのものだった。あて先は内科でも小児科でもなく、精神科への紹介状だった。僕が床についてから何回か往診してくれた医師には腎不全、尿毒症を見分けるすべもなかった。
医師は「これはね、お母さんにいつもそばにいてほしいと体が訴えているんだよ。全学連のストライキみたいなもんさ。精神科の紹介状を書いてあげるから近いうちに行くといい。」といって母に手渡してあったものだ。そして、救急車の隊員に「紹介状を持っているのでこの病院の精神科へお願いします。」と告げたそうだ。こうして僕は当時、助からないはずの数万分の一、数十万分の一の腹膜透析で助かったのだった。

つづく。

1969年、透析導入の話(1)

思いつくまま。いきなり書き出します。斜めに速読してください。僕は入院生活長いんで、病院や患者のこと。ぐだ愚だいきます。
初めて入院したのは1965年9月。2年の2学期が始まった最初の土曜日。
プール実習で風邪を引いた翌日の日曜日。朝、起きると顔がぷっくりと腫れていた。足にむくみが。
お隣の物知りの小林のおばさんがやってきて「こりゃ、腎臓が悪いに違いない。」と断定され、翌日、いまはなき、横須賀国立病院へ。採血と採尿がすんだ後、小児科の田口先生は言った。「急性小児腎炎ですね。2週間程度の入院加療で治りますよ。」それを聞いた母は言った。「先生、この子、おねしょ癖があるんですが入院しても大丈夫でしょうか?昨夜もしたんですよ。」。。。
こうして僕の入院生活が始まった。

ここは昭和40年、その年新築されたばかりの6階建ての病棟の2階。212号室。そこにそのまま11ヶ月入院した。その部屋には、ほとんどひとりで生活していた。僕のくら~イ性格はこの11ヶ月間に起因する。時々、入院してくる子がいたにはいたが数人ですべて女の子だった。後にも先にも女性と夜を共にしたのはこの時しかないな。別に僕がいたずらしたわけでも病院の方針でもないだろうが隣のベッドが埋まったのは最初の3ヶ月くらいで後はずっと一人だった。この部屋は細部にわたって思い出すことが出来る。何しろ一日中眺めていたから。
僕の部屋の隣は4人部屋でそこには普通に子どもが居たんだが、なぜに僕だけず~とあの部屋だったか今もって分らない。病棟の生活は退屈で部屋になどいなかった。まず、隣の4人部屋ここにはテレビが置いてあった。たぶん、病院の物ではなくて入院している誰かの親が業者から借りて窓際においてくれたものだろう。その頃、テレビはみんなで見るものという風潮があった。優先権はその子にもちろん有ったが、マア、大体多数決でチャンネルは決まった。まず、野球とプロレス、歌謡番組、これが最優先された。あと、どういうものがあったか覚えていないがひとつだけ、この年、この病室で見た、と言う記憶があるものがある。それは、【ウルトラマン】、ドラマそのものではなくて来週からやります、と言う予告番組。僕の記憶が確かならそれは記者会見場のようなところから始まった。結構、広いホールのようなところ、ぎっしりと観客で埋まっていて最前列には記者たち。舞台の上にはびしっと制服に身を包んだウルトラ警備隊の隊員たち。スポットライトを浴びて一人ひとりインタビューを受けてそれぞれに地球を守る任務の重さを語る。ウルトラマンのマの字も出なかった。それだけに次の週のウルトラマンの出現に子どもたちは衝撃を受けあれだけの大ブームになったのだろう。

ここでの治療というものはほとんどなし。薬を飲んだ記憶もない。朝晩の検温と安静時間と言うのがあった。その時間は部屋にいないと看護婦さんに怒られる。この時代の看護婦は怖かった。優しかったと言う記憶は一切無い。よっぽど俺が可愛くない子どもだったのかもしれないが。。。
この頃、両親がどういう思いだったか、母は亡くなってしまったし父はそういう話をしてくれないので分らないが、常に僕にいっていたことがある。それは看護婦さんを名前で呼んではいけない、看護婦さんと言いなさい、と言う事だった。なぜ、そういうことを言ったのか今では想像するだけだが、入院が長くなるともちろん、看護婦さんの名前も覚える。すると、どうしても好き嫌いが出てくる。好みの看護婦さんを選んで物を頼むようになる。それはいけない、選り好みをしないで何か頼むときは看護婦さん、お願いします、と言いなさい、と教えられた。
それで、僕は未だに看護師さんの名前を全然、覚えられない。おまけにこのときの習性で人の名前を覚えるのが苦手になってしまった。最近、それが富に激しい。

この小児科の思い出で忘れられないのが秋山るみちゃん。この子は小学校の同級生なんですがよく、お見舞いに来てくれた。たぶん、2年生の時だけで3年になってこなくなってしまったと思うんだけど週1回土曜に来てくれたような気がする。見舞いといっても小2。遊びに来るだけだがよく遊んだ。ついつい、安静時間も忘れて遊びまくり看護婦さんに叱られた。その時の看護婦のせりふ。「安静にするだけがなぜ出来ないの。それがあなたの仕事なの!」それ以来の看護婦嫌い。天敵ですな。

まあ、つづく。

2010年8月14日土曜日

血圧低下。

昨日の透析中、久しぶりに血圧が80をきってしまった。

昔は80をきると気分が悪くなり、猛烈に看護師にアピールした。

「気分が悪い~!冷や汗が出る~。」



しかし、昨日は気分はあまり変わらない。

そのかわり、少し胃が痛いような気がした 。

1時間後との血圧測定で看護師が顔色変えた。

「73だよ!気分悪くない?」

「う~ん、、、そんなに悪くないけど何か部屋が暗い気がする。」



看護師はあわてて僕のベッドを倒し、除水をきって、注射を入れた。

透析は長い間にいろんな経験をする。

肺に水がたまったり、貧血傾向が続いたり、Kがとんでもない値をたたき出したり、

その数字が日常化していく。

体も何処まで耐えられるか、いわゆる慣れが生じてくる。

痛みや苦しみに鈍感になる。

気がついたときには、意識を失うんじゃないかと思う。



「もっと、光を!」 ゲーテかな?

2010年8月8日日曜日


夢の中で俺は女子高生になっていた。見知らぬ外国の列車に乗っていた。どうやら通学の途中の様子。
風景はのどかな田園が続く。夢の中の俺はある駅を目指していた。もう少しだ。列車はその駅のホームに入って行った。降りなくちゃ!と思ったが、周りの外国人たちの流れに乗れず乗り遅れてしまった。
しょうがなく次の駅で降りる事にした。次の駅は降りるものもなくすんなり降りる事が出来た。一人でホームを歩いて反対側のホームへスタスタと歩いて行く。が、気持ちはエレベーターを探していた。掃除をしていた駅員に、エレベーターは何処?と聞くと、ずっと向こう。真っ直ぐいったとこ。そっけない。真っ直ぐ歩いて行くとエレベーターがあった。が、なぜかの乗らずに真っ直ぐに駅の外を歩いて行く。
ずーっとつづく一本道。辺りは外国の田園風景。
しばらく歩いて行くと、に本らしくなる。大きな家について玄関の門の前についた。そこで俺は気分が悪くなって倒れた。
誰か〜、と呼ぶと家から若い衆が飛び出て来た。あ!親分!
大変だ〜親分が!と言って人を呼びに行く。なんで俺が親分?女子高生なのに?あ!セーラー服と機関銃?(本当の俺が呟く)
奴が家へ飛び込むと同時に変な女が俺にのしかかって来て手のひらに注射をしようとする。もがいていると脇に止まったトラックから男が飛び出て来てその女を羽交い締めにして連れ去った。どうやらこの女が女親分ではなかろうか?

翌日か学校の仲間と道を歩いている。相変わらず女子高生姿をしている。女の連れが二人。一人は俺と同じような男言葉を使う元気な奴。もう一人は、いや〜ん、待って〜。みたいな聖子風。あと男子が2−3人。例の駅から何処かへ行く様子。みんなで列車に乗る。隣には聖子風が座った。胸が結構大きい。心の中で俺は今、女だよな?確認した。彼女の胸に頭をもたげしばし仮眠。女なのに何故か癒される。
しばらく生きと下車してまたぞろぞろと歩く。みんな手ぶらだ。学校へ行く様子ではない。気が付くとあの子がいない。おーい、なにやってんだよ。遅いぞ、もう。とか口々に叫んでいる。見るとあの子が後から走ってくる。手にはコンビニの袋が一杯。パシリやらされてんじゃん。と思ったが自分もお前トロいんだよ。とか言ってる。
俺もこいつらの仲間なんだな。
風景は田園から街になった。
どうやら課外活動みたいなものか、目の前に大きなサロンパスが止まっていた。みんなはそれに乗りこんで行く。
乗ろうとするがステップが高い。夢の中ではすたすたと歩いて行くがバスのステップが高くて乗れない。歩道の淵からも離れている。おーい、運転手ー!たけえんだよ。もっと歩道によせろよ!とか叫ぶが応答なし。一人の男子がひょいと乗せてくれた。ぞろぞろとバスに。。。

俺は運転手にもっと、歩道に寄せとけよな!と文句をいうと、うつむいていた運転手が顔をあげた。その運転手は禿げづらにはちまき、牛乳瓶のふたの様なメガネに腹巻をしたカトちゃん。カトちゃんは、まま、席に座って。これ、サービスだから。
と言って学生たちに焼酎のボトルを配っている。みんなに配り終えた後に一つ、点滴にストローをつけた様な奴が残った。
なんだよ。それは〜。と言うと、これはあっしがのみたくなった時イッシッシ。
ダメじゃん!それー!
とか言ってるうちにみんなは席についている。俺も席に着こうと振り返るとサロンパスの車内が見えた。通路が真っ直ぐ続いていて両脇に2座席づつシートがある。シートはリクライニング付きで席と席の感覚は広い。床は見えなくてシートが空中に浮かんでいる様だ。なぜか書く席の右足のところにだけフットレストがぴょこんと突き出ている。これはアクセルペダル?と考えながら席に片膝をついた格好のままバスは発車した。まだだよ〜カトちゃん。と叫んだが、バスはかまわず走り続ける。俺は体を入れ替えて座ろうとしたが、バスは激しく揺れる。スピード感もある。カトちゃん。まだ座っていないよー!と叫ぶが、カトちゃんはかまわずイッシッシ(*^◯^*)とますます調子乗ってハンドルを切る。
馬乗り状態のままバスは上下左右に激しく揺れながらスピードをあげる。ちょっと〜、、停めて〜!とか言いながらもスピード感や揺れが気持ち良くなずか楽しくてたまらなくなる。カトちゃんはますます例のドリフのノリで鼻歌を歌い出す。俺は思わずぷッと吹き出し笑ってしまった。その瞬間,点滴中である事を思い出し誰かに聞かれたかな?と思ったが夢に引き戻された。バスはますます勢いがつきバウンドも激しくなってスピードも上がってくる。しかしもはや俺は俺であって夢の住人ではない。怖くなって夢から出ようと思ったが目覚めない。これは点滴の副作用か,幻覚か?不安になった俺はナースボタンを押そうと手を伸ばすが届かない。
カトちゃんは絶好調でバスはスピードを上げてそのままカーブを曲がりきれずに隣家へ激突していった。
ふっと目覚めるとからになった点滴パックがぶら下がっていた。気を落ち着けてからナースコールを押してナースを呼んだ。

2010年8月5日木曜日

人工血管

ゴアテックス内径5mm長さ10cm
を上腕静脈につなぎました。
透析不足になっていたので、
術後3日連続で透析。抗生剤点滴。
食欲なし。退院は今週中の予定。

2010年8月1日日曜日

8月一日。


午前中曇り午後から晴れ時々曇り。

蒸し暑い。

蝉がやっと鳴きはじめる。

火曜日シャントの手術のため、明日から入院。

不安にさいなまれる一日。



TWITTERはサーバーメンテナンスのため休止状態。

たしか、サーバーを砂漠に移転するするような話、聞いたなあ。

当分、アウトかな。

2010年7月27日火曜日

YAMAHA CYAPPY



The engine of チャッピー was hard to start as ever.
Therefore it is obtained information once again by classmates.
There seems to be a convenient method called the push-start. . .

This overwhelms a motorcycle as neutral tints and runs.
It drove fast and jumps and lets Gere.
Then I start the engine while running and leave breezily. こりゃかっこいい!

I did it at all.
However, it was a task of extreme difficult that jumped in spite of being ... push on the run whether it was the slope which was the dullness of motor nerves or a thing of power, weight of チャッピー.

Therefore I thought.
I fall down even if I do not push the slope and drive fast.
Therefore engine of it starts if I let Gere and just runs off. I am cool!

I did it at all.
In front of house becomes the slope, too, but it is small and is dangerous when a person comes out by any chance.
I understand the reason like it.
I push the motorcycle for a while, and a way in front of the Shinto shrine is wide, and there is little pedestrian traffic, too.
Therefore I decided to try it.

In in front of Shinto shrine, a gentle slope lasts around 50m.
70k pushed a certain チャッピー and climbed the slope.
In hope of refreshment after the hardship; and ...

The up changed a direction to the top of the slope and rode a motorcycle and went down the slope.
When I watched the time and kicked a gear in D, an engine raised a growl in a moment.
* ・ ・ guar - ン! バババ ...! Speed rose suddenly, and ・ ・ ・ grasped brakes in a hurry.
I lose control, and チャッピー just turns over.
I was thrown out, and チャッピー fitted in into the gutter.

I rescued チャッピー from a やっとこさ ditch and pushed it dejectedly to a house and came back.

A lesson
   The push-start is dangerous

2010年7月26日月曜日

Good morning!



Good morning. This place is Yokohama of 6:23 in the morning. The sun already glares down when I appear in the porch of my home and is extremely hot.
Both a person of the work and the person that it is not so be careful about heat stroke today.

2010年7月25日日曜日

ウルトラマン・フェスティバル。



昭和のにおいがぷんぷん、しますね~。

ウルトラマン、小学校2年生だったな。

これもロックされちゃうかなあ・・・?

最近、動画は埋め込みのコードが表示されてるにもかかわらず、

いつのまにか、削除されちゃうよね。

2010年7月24日土曜日

YAMAHA CYAPPY(チャピー)


<1>What took the moped license for the winter vacation of the second grade at a high school, and stepped on original bicycle "チャッピー of Yamaha" of the father of the car for the first time.
While I was away, I dragged it from the warehouse and tried to start the engine.
I have rolled only a bicycle, but lay in stock of the information from the classmate.
I turn engine key and kick a starter.
I kicked a starter without taking メット. It does not "take ブシュン, ブシュン, ブシュン ," at all". . .
There was a lever beside the left when I confirmed motorcycle をしげしげと in front of the well of the garden.
* * *, oh? This. The liver which ・ ・ ・ slid to had D, N, a position of P and became N now.
Because I ran, I thought whether it was D and changed a lever into D and challenged it once again from now on.


I rejected it with all one's might from the front. "ブシュン, a z-z-z, ブシュン, a z-z-z"
* * * The feeling that, oh, is slightly good. When kick ・ ・ ・ once again; ブアーン! The といって motorcycle drives recklessly!
It speeded a panic ってしまってなすがままそのまま garden and rushed to the hedge of the house across the street.
I raised the motorcycle which fell down dejectedly and returned it to the warehouse.

<2>The second challenge challenged it since I studied it well.
The helmet bought a thing of a full-faced helmet, too. I hammered in that I grasped brakes well if I drove recklessly into a head.
I kick the lever in the D range with a foot with having grasped brakes since I kick it in N, and engine of it starts and turn an accelerator slowly.
チャッピー of Yamaha started running. I was able to open an accelerator since I left the small way on the run slowly in the public road.

I gradually felt pleasant as I gave speed. Right hand をちぃとひねるだけで speed rises.
I felt refreshment, the freedom that nobody knew I defeated health incidentally, and to cut a corner.

However, this チャッピー continues driving recklessly still more.

2010年7月23日金曜日

Vuscrar access







Now, put in the upper left arm artificial blood vessels causes narrowing. It is serious because years of dialysis history I access. Beyond 60 operation number. It can withstand me. Japanese doctors too and forced to endure the suffering patients.

2010年7月22日木曜日

HONDA CB50ベンリー号


Is it the training of the motorcycle in チャッピー of Yamaha? I who piled up を went to finally buy CB50 Ben Lee of five speed gears.
I who watched this motorcycle which appeared in those days at store am love at first sight ~@ゝ@

In the 20,000 yen ばかしを hand which collected a New Year's present in a motorcycle pass; = レッツラゴー! ! !
"Uncle, this CB50 top top!" I did only ", and I cannot have been able to buy it for 20,000 yen, and the Uncle ... said.
It "is next な 50,000 yen after saving" it. I make the remainder a monthly installment plan. "よっしゃ ...! I understood it. Forget the words. --I close it

Did it take it for half a year? . . .
The next 50,000 yen in a hand a motorcycle pass; レッツラゴー! ! !
I "receive it by an uncle, a CB50 monthly installment plan"! The uncle of the "motorcycle shop remembered a promise and made 12 remainder a monthly installment.
A verbal promise it comes to the consent of the parent or the store which it does not need every month, and to pay.
Promise っちゅうやつだ of a man and the man.

When intended that would take insurance and ませさあ finished by a procedure home; an uncle is a word.
Do you "understand the gear?" Of course then it is ありがとね ... ""! It is reading んだがやったこたあない in the only book which I called ".
Because an uncle stared, I grasped a clutch with the left hand and stepped on a gear and was able to open an accelerator slowly.
Guar! Guar! グアアアアアン!
I left the place to jump up and down. I felt the eyes of the uncle to a back, but do not care it.

I put gear 2 in a speed at the time when an uncle passed out of sight.
I kick it up with a help or the left heel. . .
As soon as kicked it up, and separated a clutch; ガクン! A と engine stall.
I challenged it sometimes, but did not belong under two speeds.
Although ガックンガックン was good, I brought a way of 4k as one speed somehow to a house.
                <2>
The next day.
I start the engine of the motorcycle to practice the clutch. I check neutral tints and turn a key and kick a starter.
ガスン. ガスン. ガスン. It does not cost this again.
It is a new article unlike チャッピー. I do it many times, but do not take it. . . . .
The uncle of the house across the street heard it when I kicked it while becoming close to tears and came out.
"Paste." Did you buy a motorcycle? Is not there it from an engine? I have had this uncle rode a medium-sized motorcycle from old days and ride "once to Shonan.
It was it for a missing uproar then without saying to Mrs. uncle to mother because I had gone.
The Uncle "show an uncle it a little, and is all". The Uncle "kicks several degrees, and will wave a motorcycle in right and left; said.
It "will be paste, a this new car". Did you pour gasoline? I thought that it was filled up, and "I entered because I bought a motorcycle for the first time, and the gasoline was not able to enter.
"Gasoline enters at the age of a new car to a minimum". It is out of gas. "

Say とおじさんは, and, at the time of running out of gas, open a cook supplying gasoline left there of the tank to an engine; because "several kilos can run in this, gasoline can enter immediately". When say ", and kick it; guar - ン! A comfortable engine sound sounded tam-tam Tamm ...

鶏肉つけ蕎麦

 


食べるラー油を少しつけていただきます。

揚げ玉、チラシ海苔、薬味葱はお好みで。

わさびとはまた違った味わいがあり美味しいですよ。
Posted by Picasa

最後に愛は勝つ!


Even if it is forward, and the banzai that there is wife and child though it was written for the article is more desperate for treatment to be able to receive good dialysis.

I think that there is it. .
I surely think that the person that there is wife and child will live long well.
Of course though I think that there is exception Nakata.
It is power of the love it thinks that after all it is power of the love of the wife, and to want to protect child and wife as a man.
It is the best if I have the first understanding person be be a disease to a wife.
When it is a parent, the consultation that stepped is not readily possible.
Does thought not to want to make a bet of worry appear earlier?


I wrote the story that stayed at the room of the newly-married dialysis patient in old days.
The story that I had the newly-married couple lay in the double bed and spread futon on the side, and lay down.
It is talked about the couple soon first though it was at a good old story and hospital.
I pretend to have slept naturally.

According to the story that I heard with an ear as Dumbo, it is said that a wife wants a child.
I hear the efficient story that it was possible for a child if dialyzed now in dialysis start several years.
But there are few wishes if a man begins dialysis in the those days.
I whisper that a wife wants it by all means.
A child hopes that no use meets in-vitro fertilization or an adopted child.
I say that I will go to the hospital together.

I thought while hearing this story.
うわ ..., めちゃ, story Jean of adult. Must you think such a thing to be marry?
Worked, but can live happily, and, speaking of me of that time, double each day every day;, no, cannot live long that much anyway, and only rank thinks.

The man of six differences makes a deep talk with a woman to here whether it is just 5.
I bring up a child seriously and investigate the domestic future of oneself.
When there are the thing which I want to protect, a beloved thing, I want to live long a little.
Naturally even consciousness to protect one's health will be different.


I did not understand what wants to say, but it is dialysis patient you who is young who are single, longevity marriage.
I sleep whether I think, and even love changes. If there is a favorite person, I will attack it hard.
I ask the degree that I do not become to a stoker.
>> that the love wins in the << last

2010年7月21日水曜日

血管外科医 blood vessel surgeon


Venous pressure broke out during dialysis of Monday, and a warning sounded. I can have not but come to move 除水 [I draw water] of HDF. I went to have a blood vessel surgeon examine it yesterday. I said that remaking it was possible. I mentioned it sometime, and there was not it

2010年7月19日月曜日

シャント狭窄

Venous pressure broke out, and, during today's dialysis, dialysis was not possible.
A nurse heard a sound with a stethoscope; do not "make a sound". Have another "nurse hear it; and "after all is not known". I have a "doctor write a letter of introduction, and blood vessel surgery will have a checkup tomorrow.
Are you no use unless you remake シャント?

syouwa50"1975"

I watched BS "block calendar calendar 1975" of NHK.
When say 1975; Christian era 1975.
I am time of the first grade at a high school.
One's memory and duplication were just interesting because they were same as article "1975" that they wrote the other day.

Swim first championship, a No. 1 summit of Hiroshima Carp, a Prime Minister Miki blow case, the right-to-strike strike of the Public Corporations and Government Enterprises Labor Unions Council, the social problem of motorcycle gangs, the domestic trouble of the Red Army! World-beaters of fried たい.

Because it is same Kanagawa, I remember National highway No. 134 of June, a duel in front of Kamakura Senior High School well.
Think that was the collision of a scuffle uproar between motorcycle gangs, local Spector and the black emperor of Tokyo,; but of 600 in both sides is a scuffle very much! I set fire to a car and make a fuss.
Traffic seems to have stopped National highway No. 134 of Shonan until the next day.

The Yokosuka alliance or the handbill of a clown or the meeting turned around in those days, and set and voice がかかったりまあ were prevalent in front of peacock garden in my senior high school at 11:00 in the afternoon of Saturday.
However, Road Traffic Act was revised after an interval of seven years, and the police which I supervised as a traffic violation got possible to supervise the reckless driving act itself as a danger act so far, and, after this case, the reckless driving in the group burnt down very much.

I take means of transportation of the attendance of the office worker of Kanto region and win antipathy, and National Railway Workers' Union, the right-to-strike strike of Doro were over for failure, but it will be a fact that activity as a union member burnt down by this.
On the other hand, I recaptured a friend confined in prison by a step of the super law of the Kuala Lumpur consulate occupation case Japanese Government in this year, and the Reds which I raised escaped to Asama mountain cottage case やよど cases overseas in 40's.

The left extreme left group causes consecutive company blast cases as the last resistance.
How to make time bombs named the stomach stomach clock appeared in the world and brought the damage by the Mitsubishi Heavy Industries Building blast more.
The East Asia armament front that caused this case becomes the making a roundup arrest and greeted convergence rapidly, but wakes up a great event in Yokosuka.
The case happened in the small apartment of the town where I lived in.
I let the criminal who produced bombs apologizes at night and mistakenly bomb it in one room of the apartment.
Of course the criminal died from blasting, and the apartment sent complete destruction, a lot of victims.
It is green Zhuang bomb case, but there will be little one winning through up to memory too much.
I passed peritoneum dialysis every day, and I went along in front of this apartment by taxi every night in those days.
Go along the place just before an accident in the evening; and is Zushi - ン in a few minutes about a house. I remember that I felt vibration rather than という sound.

And made a big hit suddenly at the end of the year; "swim"! Fried たい.
Open; ポンキッキ! It was prevalent among から children very much, and I began to be popular among adults as a dirge of the office worker afterwards, and it seems to have been it with a record-breaking world-beater.
This sales record is not still broken.
What I begin this song, and heard thinks that was the whole car going to the university hospital for renal transplantation inspection,; but we are fried かれていやになっちゃうよ ~. on a thing of an iron plate in every day in the text ♪ every day ♪
It was right the time when it went to the peritoneum dialysis every single day, and it became unpleasant.

1975. Was not it the transition period when the youth who spent all its time ing rivalry dried up, and it changed into a generation?
When it was the times when it was very interesting, I felt it.

2010年7月18日日曜日

改正臓器移植法。

これで15歳以下の子どもの臓器移植も可能になったが脳死の問題は解決の兆しも無い。
また、解決するとかしないとかの問題でもないし。

救急医療体制の不備もあるし、脳死は日本人にはなかなか受け入れられないと思う。
まず、脳死がどういうものなのか、説明がなされていないし、医者どうしでも、
脳死を人間の死として認めない、という方々もいる。

このような状態で法だけ脳死を人間の死として定義してもよいのだろうか?
普通の病院で死を迎える人々は脳死判定などしないんでしょ。
認定された病院に運び込まれた方が脳死判定により死と判定され「移植提供の意思確認」が成される。
これでは家族はにわかには身内の死を納得できないだろう。

医者の意思が統一されて何処でも脳死判定可能な体制が整わないと、いつまでも最後の審判は、
家族の意思に寄る、という重荷を背負わされる事になる。

重荷は医者が負わなければならないと思う。

昭和51年の移植事情。


昭和50年頃は移植に対する偏見とかはなかったと思います。
生体腎移植にしても献体腎移植にしてもたいした論議もされていなかったし
臓器移植に関する法律が定められるのはこれから20年も先の話です。


大学病院は立派できれいな未来的な建物だった。
病棟は真ん中のエレベーターホール三棟が放射状に延びていて10階まであった。
それぞれA棟B棟C棟と呼ばれ僕が入院したのは9階のC棟、9Cの何号室という具合だ。
部屋は大きくて8人部屋。詰め込まれている感じはなくて悠々とした広さがあった。
ベッドはそれぞれぐるりとカーテンで覆われるようになっていて夜は安眠できた。
同室の方は糖尿病や腎臓病、心臓病など循環器系の患者さんたちであったと思う。
この病棟には腎移植の患者さんたちが頻繁に入院しているらしく移植の検査入院で来ました。
といっても、何の興味も示さなかった。へ~。そうなの。と軽くあしらわれた。


親父は毎週1回くらいの割合で来てくれた。
電車を乗り継ぎ片道2時間半くらいかかる辺鄙なところだった。
8歳で腎臓病になって何度も入退院を繰り返していたが親父が見舞いに来てくれるのは滅多になかった。
仕事人間で忙しくあまり話をしたこともなかった。
それまでの入院では前年に亡くなった母がほぼ毎日のように来てくれていた。
この1週間に1回という親父の見舞いで親父が案外話しやすくて冗談も言う人なんだと知った。
昼過ぎに来てまず「どうだ?なんか変わりないか?」と一言。「ウン、変わりないよ。」
で、意外に優しいこの親父に僕は甘えだした。

「何にかほしいものないか?」この言葉を必ず帰り際に言うので
「崎陽軒のシュウマイが食べたい。」
果たして次の來院日に20個入りの大きいほうを買ってきた。
他の患者さんはみんな、循環器系で食事制限中、もちろん僕も???
仲のいい患者数人と打ち合わせて消灯後にこっそり食べようと決定した。

消灯後の見回りの時間がわかっている。
消灯の見回りの看護師がやってきて電気を消して去っていく。その足音が消え去るのを見計らって・・・
「それっ!」と集まってシュウマイのむさぼりつく。
4人で5個ずつ、結構な量です。普段食欲がない、なんて言っていたものの
あっというまに食い尽くした。

何知らぬ顔で満足してベッドに入ってしばらくすると看護師がやってきた。
みんな、寝たふりを決め込んでいたが「なに?このにおい!!!くさい!誰か何か食べた?」

食った本人たちは気がつかなかったが部屋中、シュウマイのにおいが充満していたそうだ。

夏本番。




今日は暑いぞ~!

2010年7月17日土曜日

2010年7月16日金曜日

2010年7月15日木曜日

Kidney transplant wait

献腎登録者証 arrived yesterday. I am a person of kidney transplant wait in this.
I wrote the feeling when I went to the registration, but write the present feeling even for the meaning to arrange a feeling some other time.
I did kidney transplant from father (1976) in 1976.
I decided an operation by the strong advice of father rather than my hope then.
Getting together to recover from a disease in this remembers that uneasiness was bigger.
There were rejection and the fear to the thing to talk that I heard for it , a rumor, and there were laparotomizing you and the fear of saying.
However, I was full of spirit, and father seemed not to have already felt uneasiness dew whether determination was firm either.
But probably father thinks it to have been full of uneasiness by it れは mistake now.
Unfortunately the kidney of father did not function as 1st. The function stopped as soon as I was in my body, and I was preoperative and was dialyzed consecutively on 3rd, and the art back was dialyzed from the next day, and I was not left by dialysis after all.
From that, is still dialyzed more than 34 years.
I still thought that I was happy because I kept it alive spending , a tax.
Well, only as for this that it was at time when I watched a homepage of 全腎協, and a current transplant hope enrollment watched what was displayed in real time in the corner when it was anything and said when I thought I transplanted it suddenly why, and to register it, and person around 12,000 whom the number of patients was as for 280,000, and dialysis registered transplant with stood to ... (even if there is the way of feeling in various ways, ...) me. . . I thought of と.
I thought that neither the worth doing nor the skill might improve the people who intended to promote transplant in an important transplant registrant not growing.
I thought that I did not need to say, but dialysis were alone in 40 and thought that I alone just registered himself/herself, and what changed how.
Though I "think that I am possible enough when " ...-resistant hears even a state of my now for transplant" to a doctor in it the next day and does it, it depends on physical condition at that time". Anyway, nothing begins without registering itself. It be said ",
* ・ ・ it is so, too. I am same as jitters ....34 years ago. Anything progressed, and older sister ... decided that I would register myself immediately then.
According to the doctor of the transplant registration, from '00 to '10 and the right move rate of the transplant seem to improve year by year for from '95 to '00, and say that the reason is because it is good, and there can be the thing that a working immunity suppressant appeared, and the medical technology after the transplant progresses.
When the reason was because it could examine that there was a strong antibody by inspection before transplant above all, I was taught.
At least of about 1976 seem to be different not to understand it if do not do it.
However, when is early, and think that is average with 15 years for ten years when say as for the present conditions of the transplant; with a saw.
I am dialyzed, and I turn into being dialyzed, and there will not be the next next day tomorrow either.
But one day a flow may change suddenly.
Because I may not cover even dialysis with eternity, a tax. . . .
It is me, a personal thought. To the last. . .

2010年7月12日月曜日

2010年7月10日土曜日

歩き続けるため。

Visit rehabilitation was started on temperature 30 degrees Celsius today (Saturday) on July 10.
The going up and down of the stairs of the apartment was severe and asked towards an elder-care taxi from last month and asked for the pickup with the wheelchair, but fell into a vicious circle I was robbed of an opportunity to walk at all, and the power of the foot weakened, and not to be able to walk more and more once when I began to get on a wheelchair.

It became doubtful to walk soon in a house. I recommended visit rehabilitation when I talked with the dialysis medical attendant because I began worrying.
A burden suffers from a joint when I continue bending it in the state that got on a wheelchair for a long time when I operate for both knees, both hip joints like me, and movement seems to worsen even more. I exercise and I soak a minimum muscle and always feel like not seeming to really move unless I protect it.

It is oneself a person of リハ comes once a week and teaches it, but to do from now on. But I think that I cannot walk that much anymore every day how long I get possible to walk successively. Have going to hospital and the going up and down of the stairs of the comings and goings of this apartment.
I set the makeshift aim of there.
And cut a wheelchair borrowing with a gift in return now. It is it.
Hawaii of this year is not really enough anymore.

The paste southern country tour is recruitment cancellation at one time.
Will you do your best with an aim by next spring?

Oh? The all of you do not mind me, and please say steadily in both Hawaii and Guam.
Because may take it; ...

YAHOO!ブログ。

Is it citric acid and calcium and connection?

 
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I seem to change even our clinic (だれのじゃ) to no acetic acid dialytic fluid. I already changed it at the clinic of similar line and seemed to use it, but because temperature of the machine room of our clinic was too high, the construction of the air-conditioner was necessary and seems to have been late. The no acetic acid dialytic fluid is effective in the blood pressure falls of the dialysis latter half, and it is dialytic fluid attracting attention recently.

Therefore resembled it individually than the director, and there was it when I examined blood as of our thing which I did not yet introduce it into and wanted to ask for the agreement of the drawing blood because I wanted to weigh it after no acetic acid dialytic fluid introduction. Therefore resembled it individually than the director, and there was it when I examined blood as of our thing which I did not yet introduce it into and wanted to ask for the agreement of the drawing blood because I wanted to weigh it after no acetic acid dialytic fluid introduction.When the collection blood wanted a study purpose to use only the data, it was with a saw. Of course I willingly consented in the thing that I was thankful for.

The new dialytic fluid seems to examine the influence so that citric acid is in the body for the change of the acetic acid in large quantities. The item is supervillain cholesterol, lactic acid, building bottle acid, The supervillain cholesterol is a kind of the LDL, but because it is smaller, it is easy to invade it from a vascular wall, and it is great cholesterol to have an influence on such as the arteriosclerosis. Because it is the item which it inspects it, and it rarely holds, how will?

The lactic acid is called fatigue materials, too, but does not seem to be so.
What will the building bottle acid be?


クエン酸とカルシウムと関連? Is it citric acid and calcium and connection?
It is a nice thing that have you inspect it well when you use マア, a new thing.


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16. ぽち、お願いします。 I ask for ぽち.


17. twitter やってますよ。 I do twitter. twitter.com/dialysis40

朝。

 


今年の芙蓉はもう、満開。

花色もいつになく濃くきれい。

7月10日土曜日。

今日は快晴。
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