2010年9月23日木曜日

ICUな恋(続き)

次の日の朝


いい香りで目がさめた。 左にいつも置いてある丸椅子を、壁際までさげて、壁にもたれている老人がいた。 その老人は、茶系のコールテンのズボンをはき、ベージュよりも少し濃い色の、 ハーフコートをはおり、赤いマフラーを巻いている。そして、コートと同系色のハンチングには黒いラインが、7~8本ひいてある。 彼はゆっくりとパイプ煙草をくゆらしている。 視線はうなだれ、ちょうどおれの寝ているベッドの下の床あたりか。



4~5分のあいだおれはじっと老人をみていたが、老人は下を向いたまま身じろぎもしなかった。すると、奥から中年の赤い着物を着たご婦人が、学習院にでも通っていそうな子供の手をひき、あらわれた。 「あなた!先生がいらしてよ!お話合いなさるんでしょ!」 老人は、無言でポケットから袋をとりだし、パイプの灰を捨て、またポケットにパイプと一緒にしまい込んだ。そして、ゆっくりと立ち上がり無言のままご婦人の後を追い奥へ去って行った。 それから10分位で、老人、ご婦人、○○先生の順で奥から出てきた。 出入り口で止まって、挨拶したのはご婦人だけで、老人はスタスタと、無言のまま先へいってしまった。 どうやら、相当お冠のようである。ご婦人はそそくさと挨拶し、老人はの後を追った。先生はふかぶかとお辞儀をした。



次の晩から、イケメン医師と若いナースのふたりは、堂々と帰りをともにするようになった。医師が風呂に入れば、新しいシャツを用意して待つようにもなった。 他のナースの反応は、ご想像の通りである。

その後、2~3日でおれは普通病棟へ帰還した。

2010年9月20日月曜日

ICUな恋

担当の、若いナースは、やはりICUで一番若いナースだった。 この彼女は絶対あやしい!いつもベッドの左に気配を感じるのだが、 この時も、ひだりに気配を感じ、ふりむくと、おれの鼻の頭に、ピタリと、当たるものがある!すると、彼女が、左45度にかまえ、右手をまっすぐおれの頭に向けている。その手の先には、長さ15㎝位、先端は、単語カード位で角は丸くしてある。手元に向けて細くなっている。 そして、その黒漆に螺鈿細工で桜吹雪が描いてあり、素晴らしいものである、それをおれの鼻先にあて「なんだ」と、おれがいうと「ふん、甘いな」と、いったまま去っていった。




このナース、夜勤の明け近く、部屋の真ん中の通路を、黒漆のなにかをもって、端から端まで、「えい!えい!えい!」と気合をいれて、素振りをしている。たまに、先輩にみつかり「またやってる!やめなさいよ」と、叱られている。この人は実在するのだが、やってることは おれの、幻覚だろう。



そして、もうひとり、わからない人物がいる。ここの主任医師である。 かなりのイケメンである。しかし、白衣を着たところをみたことがない。いつも、高そうなスーツ姿である。 この医師は、朝、早く出勤し帰りは夜中の12時半である。 新人ナースとこのイケメン医師が、アヤシクナルノデアル。



まず、このICUにはボイラーがあり、風呂もある。 時々、ナースたちもこの主任にボイラーをつけてもらい、夜勤明けなどに入って帰るようだ。



ある日、雨の夜、この主任がびしょぬれになって帰ってきた。 若いナースは、みんながいるにもかかわらず彼の世話をやきだした。 彼が風呂に入ってる間、脱いだものを必死にアイロンで乾かしている。 そして、この後、事件が起きる! アイロン掛けに感動したのか、自分への彼女の愛に応えようとしたのか?朝までの夜勤のふたり、12時すぎに、車に乗り、どこかへいってしまった。 残されたNsたちは憤慨し「ほんとにいったの!」「誰も行先ききかなかったの!」彼女たちは絶対許さない!に、意見は一致! 呼び出されたのが、主任の上司、ICUの室長である。彼は落ち着いていて 「なにかいっていかなかったかい?」「う~ん、しょうがないなぁ・・」と、ケイタイを取りだし呼び出した。 30分ほどでふたりは、うなだれて帰ってきた。 主任は、室長にお叱りをうけたあと、どこかに閉じこもってしまった。彼女は、みんなの冷たい視線のなか、担当患者のおれのそばから、動かなかった。



ここからふたりはますますヒートアップする!!!

2010年9月19日日曜日

ICUの話

 イラン人とみのもんた
術前に、「手術が終わったら、すぐICUにいって透析をするよ。」 と、担当の医師に、言われていた。 麻酔から覚めると「透析のベッドがたりないので、○○病院で透析するからね。救急車で送るからね。」と、言はれ、搬送された。 その病院につくと、すぐに、風呂にいれられた。 その風呂は、ドラム缶風呂が3から5くらい並んでいて、窓が広く、青空がのぞいている。そして、あたりは湯気でもうもうと霞んでいる。 患者たちは、皆、はだかでベルトコンベアで、無言で運ばれてくる。 ドラム缶にはいると、なぜか、全員、プッカプッカ上下する。 おれも、ドラム缶風呂にはいり、ぷっかぷっかしたあと、透析室に連れられて行った。その透析室は、病院玄関の脇にあり、まるで玄関脇のサテライトスタジオみたいで、ちょっと変わっていた。



中にはいると、奥に4ベッドの透析室があり、ブルーの床屋さんのような服をきた先生が待っていた。 そして、「あぁ・・。まっていたよ。」と言って、透明なランドセルに液体の入ったものを背負わされた。 そして、そのランドセルから伸びる管の先に酸素吸入器のようなものをつけられた。そして、そのランドセルに入った液体が、おれのマスクに 充填された。その床屋のような医師が言う「しっかり息をすってごらん」おれは、そのオロナミンのような液体をおもいきり吸い込んだ! しかし、むせこむようなこともなく、苦しくもなかった。



「先生、これなに?」と聞くと、透析じゃないか、と一蹴された。 「いつまでやるの?」おれはしつこく聞いた。「一日じゅう」と、そっけない。おれは三日四日寝てないような眠気に襲われた。 目を覚ますと、なにやら外が騒がしい! イラン人らしき人々が玄関前にバリケードを築き、病院まえの道路に横づけした機動隊に向かい気勢をあげている。 「けいさつはカエレー!!!、イラン人をばかにするなー」 警察も負けてはいない。「ただちにかいさんしなさい!!!」 と、いって盾をかまえて進軍してきた。 するとイラン人たちは、ますます興奮して、どこから持ち出したのか、 投石をはじめた。警察は後退し、両者にらみ合いとなった。



この事件は、報道され大事件となっていた。おれは、こりゃ~、テレビもくるな。と、心のなかで思った。すると、早速、テレビクルーがやってきた。まず、前のりのディレクターが、透析室に乗り込んできた。 先生が抗議すると、「病院には許可をとってあります!」なかなか、やり手のようだ。長い髪をうしろに束ね、黒いスーツに身を包み、てきぱきと機材を運びいれ、男たちに指示をだしている。 そこへ三橋看護部長が現れ、なにやら女ディレクターと打ち合わせを始めた。そこへサングラスをかけたこわもての男が現れ、その後ろから、みのもんたがやってきた。彼はさすがでフアックスをペラペラとみて、 看護部長と二言三言話すと、取材を始めた。



その場面はすぐにLIVEで放送された。おれはなぜか、親父が心配して、来てくれるんじゃないか?と考えた。 すると、2時間くらいで親父がやってきた。親父がはおれに「こんな問題のある病院でだいじょうぶか?」と、いった。おれは手術をしてくれた医師を信頼していたので「○○先生がみててくれるよ」と、親父にいった。 取材をおえた、みのもんたは、親父と話し始め、意気投合!!! なにやら、酒の話になり「イッパイいきますか?」と、話がまとまり、タクシーを呼んでふたりでどこかへのみにいってしまった。

テーブルに親父のケータイが残されていた。



すべて夢のお話です。たぶんね。

2010年9月12日日曜日

9・11アメリカ同時多発テロから9年。

高校時代。

高校のときの一週間。


月曜日:朝8:30徒歩で登校。

    6時間授業。

    部活。

    5時の透析に間に合うように下校。

    衣笠十字路まで歩いて横須賀中央行きのバスで病院へ

    5時半頃から透析開始。食事。6時間透析。終了11時半。

    そのまま、病棟の空きベッドに寝る。

    

火曜日:病院で朝食。病院から登校。

    朝8時横須賀中央からバスで衣笠駅、徒歩で登校。

    6時間授業。部活

    友達の家に行く。

    夜8時頃帰宅。夕食。入浴、就寝。



水曜日:朝8:30徒歩で登校。

    6時間授業。

    部活。

    5時の透析に間に合うように下校。

    衣笠十字路まで歩いて横須賀中央行きのバスで病院へ

    5時半頃から透析開始。食事。6時間透析。終了11時半。

    そのまま、病棟の空きベッドに寝る。

    

木曜日:病院で朝食。病院から登校。

    朝8時横須賀中央からバスで衣笠駅、徒歩で登校。

    6時間授業。部活

    友達の家に行く。

    夜8時頃帰宅。夕食。入浴、就寝。



金曜日:朝8:30徒歩で登校。

    6時間授業。

    部活。

    5時の透析に間に合うように下校。

    衣笠十字路まで歩いて横須賀中央行きのバスで病院へ

    5時半頃から透析開始。食事。6時間透析。終了11時半。

    そのまま、病棟の空きベッドに寝る。



土曜日:病院で食事。病院から登校。

    朝8時横須賀中央駅からバスで衣笠十字路。徒歩で高校へ。

    4時間。友人と下校。友人の家に直帰。

    夕飯時までお邪魔。帰宅。



日曜日:一日中友人と遊ぶ。



高校2-3年の時のスケジュールですね。毎日これでした。何の迷いも無く同じ一日でした。

1年の時は、腹膜透析で12月に移植で入院するまでタクシーで家に帰っていたんですけど、

病院側の配慮で一泊して朝食食べてから登校できるようになりました。



勉強は大嫌いでした。学校以外ではほとんどしなかった。

毎日、友人家に行ってました。毎日学校へ行ってました。毎日、病院へ行くか、病院から帰るかでした。

透析後の病院ホテルは、止血が終わるともう、消灯後の病棟へ降りていってNS-ステーションに声をかけます。

「今日のベッドは何号室ですか?」すると懐中電灯をもってNsが出て来てくれて案内されます。

これが横着な奴だと「○●室の何番目。」と、そっけない奴がいるんですよ。

大体、空ベッドでシーツの新しくしてあるんですが、たまに退院したばかりだったり、外出中のベッドだったりで

シーツが乱れたりしているんですよ。そうすると、枕にポマードのにおいがして寝付けなかったりしましたね。

そういうことがあるもんだから、ある日、そっけない奴に何号室の何番目とか適当に言われ、ベッドにもぐりこん


だら、なんとなく、暖かい気がした。そしたら、トイレに行った患者さんが帰ってきて

「お前、誰だ!人のベッドで何してんだ!」大騒ぎになったことがある。



この頃の透析室は明るかった。まだ、余裕もあり、みんな若くて希望にあふれていた。高齢の人はいなかった。

一度、死を覚悟し透析で救われ仕事や家事が出来るようになり喜びにあふれて活気があった。

看護専門学校が併設されていて新人看護師の希望先は透析室が一番多かったと言う。

今では信じられんことですね。今は、結構、透析患者、煙たがれてますからね。


僕は病棟に泊めてもらって夕食と朝食、1泊2食つきだったんですが請求はなかった。

透析室は倍倍ゲーム増床し大きくなっていった。



このまま、この楽しい時期が続くと思われたが、爆発的に増えた透析患者数により、状況は一変した。

サテライト式のクリニックの登場。

これでアットホームな病院の透析時代は終わる。








    

2010年9月11日土曜日

セミナイト(準夜)

セミナイトは中学に入学したのを機会に大人に混じって入れてもらった。
そして、高校、専門学校、仕事を始めて、途中オーバーナイト5年やって以外は準夜だった。
最初はコイル型透析器、洗濯機に回路をぶち込む感じ。回路に血流が流れ出すと鼻がツーんとして、目が充血した。
中3の5月の修学旅行、2泊3日の京都・奈良。母が随伴することで許可された。暑い5月だった。その夜、シャントが腫れて高熱が出た。
何とか最終日まで耐えたが学校へ帰着すると同時に待ち構えていた救急車に乗り換えた。
シャントは感染していて人工血管は取り除かなければならなかった。

入院は長引き、先生の決断はまた、腹膜に戻ろう、と言う事だった。僕は抵抗した。医師にでなく母に。。。
「もし、腹膜透析に戻るくらいなら、僕は退院と同時に観音崎の灯台から身を投げて死ぬ。」
母は静かに「そんなこと言ったってしょうがないじゃない。。。今は頑張ろうよ。」
2学期からは腹膜透析になった。学校が終わってすぐ、病院へ行って透析を開始しても腹膜透析は長く夜の11時くらいにならないと終わらない。しかも毎晩。母は歩いて迎えに来てタクシーで帰った。11月の後半、木枯らしが冷たく吹く頃、透析の帰り、母が僕にポツリと言った。
「のりちゃんがちゃんと腹膜受けてくれてよかった~。ホントに飛び込むかと心配しちゃったわ。」

1974年12月13日(金)この夜も母は迎えに来た。その夜は妹も連れてきた。横須賀中央駅まで歩いていく途中におでんの屋台があり妹が「ウインナー食べたい。」と、ねだった。
いつもなら母は「やめなさい。」とたしなめるのだがその夜は「のりちゃんも好きなもの食べていいよ。」 妹はウインナー、僕ははんぺんを食べた。見上げると皆既月食から回復しつつある半分赤黒いような月が出ていた。母が僕の病院に迎えに来たのはこの世が最後になった。

翌日の土曜から母は友達と箱根旅行へ行き、12月15日、日曜の昼、小田原の喫茶店で脳内出血でなくなった。享年42歳だった。

2010年9月9日木曜日

オーバーナイトな恋。



今はこんな僕でも夜間透析をして昼間フルタイムで働いていたときがあります。

一応、時間は9時~6時の9時間透析でした。

でも、自分の場合、穿刺が最後くらいになるので9時半~6時半でしたね。

で、朝食が出ました。其れを食べて出勤ということですね。

火曜と金曜の週2回でした。中2日と中3日がありますが、土日月火の3泊4日の旅行などが出来、若さもあって一番、楽しい時期でした。昭和の終わり位から平成3年まで5年間くらいだったかな。

穿刺場所は右の太股のシャントに一本と左手の静脈に一本のスタイル。

このスタイルは12年続いた。人工血管を持たせるための苦肉の策だ。

おかげで12年間の楽しい青春時代を過ごせた。(ちょっと遅い青春だったが・・・)



この夜間透析なんですが、やっぱり圧倒的に男性が多い。当時の看護師は若い。そこで恋が芽生える。

穿刺が済んでしばらくすると消灯になる。透析室は結構暗くなる。

ベッドもまばらで隣との距離の離れている。お目当ての看護師さんが当直なんて夜は寝ていられない。

夜は血圧も測らないし若い元気な患者ばかりなので異変も無い。

朝、終了の時か警報がなった時しか話せる機会がない。あとはナースコールで呼び出すか、だが、当直は二人いるんだよね。どっちがくるか分からない・・・・

そこは病院側も分かっているのかかわいくて人気のある看護師にはこわもての看護師を組ませる。

一か八か「えいや~!」とコールを押す奴もいたにはいたが大抵、強面看護師に、

「たいした用も無いのにナースコール押すんじゃな~い!!!」と、叱られる。

そこで、前にも書いたがラインを握り締めて警報を鳴らし看護師を呼ぶ方法だ。

これは、警報だから必ず来るし、しかも叱られない。でも、やはり、こわもてがくる場合がある。

で、夜通し起きていてチャンスを狙う。さっき強面が着たから、今度はあの子だ。

それ、ってんでラインを握り締める。すると、あちらこちらで警報が鳴る。

考えることはみんな同じってことで・・・・><:

それでも、みんな頑張ってこの時間帯の透析からは結構、ゴールインなさった方々多いんですよ。

僕は失敗したけどね。

2010年9月5日日曜日

2010年9月3日金曜日

@dialysis40, 10/08/30 1:13

norifumi (@dialysis40)
10/08/30 1:13
ICUから観察病室に入った。隣の部屋は個室らしい。深夜になると電話をかけている。聞くとは無しに聞こえてしまう。「あなた?ワンちゃんに代わって!あ〜〜、ママに会いたいんの〜!う〜ん、待ててね、もうすぐ帰るからね」毎晩電話して居た。しかし、隣の部屋は存在しなかった。


渡辺典史(^ー^)ノ