2010年10月28日木曜日

全腎協設立当時のお話。

神奈川県腎友会機関紙「じんゆう」10月号より。


三浦腎友会平成8年5月に行われた総会での全腎協設立当時に関わった方のお話を
載せています。

只今、ご紹介頂きましたがいろんな役にかかわっている訳ですが、役をやるつもりでやっているわけでなく、一緒に透析をやっている者が苦しんでいて、同じ病気で苦しんでいるのなら動けるものが何とかしなければと言う気持ちから運動に入りました。総会で古い話をしてくれとありましたので、昔の状況を皆さんに知っていただくのも大切かと思い話をさせていただきます。


 私も昭和43年頃から蛋白尿がでて、仕事をしていてもすぐ疲れる状況にありました。受診していくうちに腎機能がだめだということで東京の病院に救急車で運ばれました。10日くらい経ってどうやら生きていけないぞと言う感じを受けました。医者に私の命はどれくらいか訊ねたら一ヶ月くらい、助かる方法は透析というのがある、との話。透析にかかるには東京には空きがない、横須賀の共済病院にあると紹介され、横須賀に戻ってきました。


 昭和45年当時、透析をやっていた人は8人位だったと思うが、私はすぐにでも透析が出来ると思ったが全然出来ない。透析の機械の台数が少なくてかかれない。かかるには貴重な透析機械なので身元調査をし、財産とか学歴とかを調べ、世の中のためになる人を優先的にするという選択をしていました。私が透析にかかれたことは幸運であったと思います。


また、当時の健康保険なんですが、健康保険は昭和42年12月に適用になったんですが、私は健康保険本人ですので医療費負担はないんですが、健保の家族で5割負担で大体10万~30万かかります。私の給料が2万5千円くらいですから大変なものです。家族は働けるものは皆一生懸命働き病院に20万も納める人がおりまして、その方は病院から家に帰ってもいいといわれていても帰れない。家族が皆、朝から晩まで働いて自分だけ病気で寝ているわけにはいかないという。病室中、そのような話があり、治療しながら皆、泣いておりました。


これは困った、何とかならないか、と言う時、ちょうど新聞に広島腎友会設立という小さな記事があり、これだと思い、会を作る機運が生まれました。この医療費を何とかしなければならないということで横須賀共励会を昭和46年2月に設立したわけです。


設立の記事が全国版に載ったと思うんですが、これを板橋にある「ニイレの会」(ニイレ=ドイツ語で腎臓)の人が見てその呼びかけで全腎協の準備会に参加しました。


当時、板橋病院の事務局長をしていた方の友達が新聞記者をしておりまして、アピールするいい言葉は無いかということで、「金の切れ目が命の切れ目」と非常にセンセーショナルに世間に伝わりました。


当時、何度も厚生省に行きましたが、時の厚生大臣は金で命が左右されることはならん、ということで、昭和46年6月に全腎協が発足したが、厚生大臣にお願いしてわずか1年で更生医療、育成医療、と言うお金が無くて誰でも透析にかかれるという結果になりました。


患者運動が1年でこれだけの内容を勝ち取ることは異常な行動だったなと思います。


 当時、私は東京へ行くときに10段の階段を登るだけで貧血で何度か倒れました。ヘマトクリット20もなく15とかその辺でしたから。顔も真っ黒、土色で、いつ死んでもおかしくないと言われておりました。


そんなことで、昭和47年10月に更生医療、育成医療が適用になりました。
皆さん本当に生きるために大変だったということを記憶していていただきたい。
当時、共済病院の機械はミルトンロイというアメリカでは家庭透析用で一人一台なんですが、それに最高4人がかかって生き延びました。笹岡先生以下の先生も少なく看護師も専門にいたのは一人で私たちが準備したり応援しながら透析をしていました。


 シャントも外シャントで詰まりやすく片手3ヶ月と言われておりました。私も右手3ヶ月、左手3ヶ月、左足まできましたので残り少ないなんて自然に涙が出てきたものです。
しかし、昭和47年頃から内シャントができ、詰まることがなくなりました。今の透析患者が長生きできる画期的な方法だと思います。


昭和46年6月に全腎協が出来、いろんな問題を少しずつ解決する間、県の組織が出来ないと県の予算が引き出せない、透析が伸びないと言う思いから県腎友会が昭和51年に出来ました。その後、各市町村単位の活動の必要性から横須賀共励会からわかれ三浦腎友会が出来ました。今は会員100名近いと聞き驚きです。


今後も会を発展させ安心して透析が受けられる、また、新しい患者を増やさないような運動を進めていかれることを望みます。


全文を載せました。



彼は私と同じ病院で透析開始も3日違いです。私は子どもでお金の心配はしていませんでしたが健保家族で父親は大変な思いをしていたわけ、でそれこそ、彼のような人達の運動のおかげで今、生きていられるわけです。

彼は、家族から腎臓の提供を受けて透析から離脱したんですが、今、元気でこの体があるのは透析のおかげと患者運動を続け、自分は縁の下の力持ちという信念の元、今も活動を続けています。



ブログという性格上、お名前は伏せさせて頂きます。

2010年10月17日日曜日

巨人連勝でフアイナルステージへ!

 

プロ野球セ・リーグのクライマックスシリーズ(CS)ファーストステージ(3試合制)第2戦は17日、兵庫県西宮市の甲子園球場で行われ、巨人が7-6で阪神に逆転勝ち。連勝でファイナルステージ進出を決めた。

金木犀 A fragrant olive.

A fragrant olive.


When walk the town; a fragrant olive fragrant from somewhere.

I remember optimistic first love in the days of the elementary school.

HAGI (bush clover)

The flower "bush clover" which blooms in autumn.


It is the flower which is written most in Japanese "Manyoshu tanka collection".

Mukoujima variety of flowers garden / Tokyo

2010年10月15日金曜日

長時間透析の事

2009年透析の現況


を見て思ったこと。

僕は2007年にウェブを始めて透析の情報に触れるまで、医者任せでした。



昔は病院もヘマトやカリウムの値を教えてくれるくらいで血液検査の結果表なんてくれなかった。(と思う)



言えばくれたのかもしれないけど・・・・



現在はちゃんとプリントして渡されるので診察で個別のデータについて質問すれば教えてくれますね。



Kt/Vなんて言葉すら知らなかった。



こうやってプリントアウトされると保管もするし昔のデータを見ればそれこそ、アルバムを見るように



その頃の様子が思い出されます。



「あ~~、あの年の夏は食欲がなくてHtもおちこんでたなあ・・・」とか、



「あれ?PCRって1越えたことあるんじゃん。」とかね。





検査結果を見る様になると気になるのはやはり、自分の透析量が適正か、ということです。



死ぬはずだった命が助かって41年も生き延びて透析が十分か?



など贅沢かもしれませんが、、いつまでも元気に生きていたいのは人情ですね。



そこで、まず、計算するのがKT/Vですかね。



尿素窒素がどれだけ抜けているか、計算して出す指標というんですか?



1.4以上はあったほうがよいと言われていますが、施設によってこれがまちまちだそうです。



もちろん、平均ですからもっと高い人も低い人もいるわけで、栄養状態などでも、



違ってくるわけですね。透析前の値が低かったり、高かったり、血液の採取方法でも、



違ってくるそうですから、一概には言えませんけど、僕たちには分りやすい見方です。



見たことがない方は尿素窒素の透析前と後のデータを見れば自分で計算できますので、



一度やってみてください。



透析量で今、話題になっているのが長時間透析と高血流です。



日本の透析施設で一般的なのが4時間x週3回の透析です。僕もその中の一人です。



それを4.5時間x3回にしたり6時間以上x3回やそれ以上の長時間透析をすることです。



健康な腎臓は24時間、休みなく働いており長時間透析をすることで、少しでも、健康な腎臓に



近づこうと言う考え方です。 もちろん、4時間の透析が辛いのに1分1秒でも早く終了したいと、



切に思う患者さんもいます。実際、僕が始めた’70年頃の透析は貧弱なダイアライザーに



透析施設、要員不足で10時間x週2回と言う時代もありました。その頃の透析控え室の会話では、



「きっと将来はもっと、短時間か埋め込み式の人工腎臓が出来るよ。それまで頑張ろう!」



とみんなで話していたものです。



その願いこそ時間短縮で叶ったわけですが、さらに将来はどうなるのでしょう?



28万人の透析患者の大多数が6時間x週3回以上の透析を受けることが可能でしょうか?



透析施設は?スタッフは?財政的には?就業にはどうなのか?夜間透析は?



心配な要因が山積しています。



病院へ行かなくてもよい方法は出来ますか?



仕事に復帰したり元通りに社会復帰することは出来ますか?



透析黎明期の患者の夢はまだ先ですか?



答えは私が生きているうちにお願いします。

2010年10月10日日曜日




コスモスの花言葉


乙女の純潔・真心











10月の3連休初日ですが、

生憎の空模様となりましたね。

横浜は珍しく肌寒い日となりましたが、

皆さんのところはいかがですか?



連休でドライブとか予定していた方もいたのでは?

今はやっぱり、コスモスとか彼岸花でしょうか。。。

僕も見に行きたいところですが・・・

妄想花見で我慢します。




葉は順調に繁っているし、

幹も太いかな?と思うんですが、

1年3ヶ月目としてどうなのかな?

なにしろ、思いつきで始めたプルメリア・・・

比べるものがないのでわからない。

今年もまた、寒い冬がやってきます。

無事、冬を越してくれれば、来年はもしや?

淡い期待を寄せています。

2010年10月3日日曜日

カリーナ(続き)

<2>




金髪君もふとっちょ君もまだ若い。二十歳そこそこに見えた。にぎやかに話しながら運転している。

おれは○○さんのレッカー車は?」と聞くと

「これ、まだまだ動くから、先に帰ったスヨ~!なあ、げははは!」と、太っちょと笑う。

おれは後部差席の真ん中から身を乗り出すようにして「なあ、そんなにスピードだして大丈夫か?」

といって、メーターを見ると80kは出ている。金髪君が

「だいじょうぶっすよ~。快調、快調!ゲハハハ!」

「でもさ、ブレーキ利かなかったぜ!」というと

「5速あるからいざって時は2速にぶち込めばエンジンブレーキ、サイドもあるし。こうやって・・・」

といいながら80kは出ているのにいきなり5速から2速にぶち込んだ!

ギアボックスからチュイ~ン!と言う金属音がして、急制動が掛かり僕の体は前につんのめり太っちょが座っている助手席にしこたま、頭をぶつけた。

「おい、おい、気をつけろよ。ギア、ぶっ壊れたんじゃないか?」と聞くと

「おれら、修理やだから、壊れたら修理しますよ~。ゲハハハ!」取り付く島も無い。

そのうち、広い丘のようなところに建物が並んで立つところを走っている。建物は敷地が広く門には守衛らしきものが立っている。大学の研究施設のようだ。「横須賀にこんなとこあったか?」と聞くと

「最近出来た街っすよ~。」金髪が答える。太っちょはまだ一言も口を利かない。

道はアップダウンが激しくなり勾配の一番底のに道が交差して信号がある。信号は赤だ。

スピードは落ちない。

「おい、赤だよ!」

「ブレーキ、利かないんっすよ~!」

「効かないって言ったじゃないか!」

「青にならないっすかね~!」

「だから、スピード落とせよ~!ギア、落とせよ!」

また奴は2速にぶち込んで今度こそギアボックスはガッチャーンといって2速がぶち壊れた音がした。

が、急制動はかかってスピードが落ちた。信号は青になりカリーナはぎりぎりで通過した。

「なあ、青になったじゃ~ん!ゲハハハ」

金髪が言うと太っちゃがうしろの俺の方を振り向いてニヤ~と笑った。







金髪はスピードを戻しながら「でもさ~、次はどうしようか?2速、壊れたっぽいよ。」

「ポイ、じゃね~よ!だからいったろ~!なんで2速にいれんだよ!」

俺は手にびっしょり汗をかいていた。

「じゃあさ、次は3速でいくね。足りんかったらサイド引くから。」

言い終わる前に、なだらかな坂になり、

交差点にはテープが3本、20m感覚くらいで張ってある。

「テープが張ってあるよ。どうすんの?」というと

「あれはね。最初のテープを20kで通過してそのまま20kで行けばテープは次々あがるって寸法!」

「じゃあ、スピード落とせよ!ていうか、何でそんなスピード出すんだよ!!!」俺は怒鳴った。

「だって、カリーナだもん。ゲハハハ!3速、行くよ~!」

ガン!ガン!と言った感じでスピードが落ち最初のテープをクリアした。

「次が無理だな~!」金髪がのほほんと言う。「なんとかしろ~!」俺は叫ぶ。

「サイド、2回引くよ~!再度だけに~!ゲハハハ!」

ガン!ガン!とサイドを引きブレーキがかかった。

スピードは20kでテープをクリアし3本目のテープもそのスピードでするするとあがっていった。

「イエ~イ!クリア~!」金髪と太っちょはハイタッチ!俺もハイタッチしていた。



3人とも手のひらは汗でびっしょり。

目が覚めると俺は体中、汗でびっしょりになっていた。

カリーナ1600ST

僕は駐車場に向かって歩いていった。カリーナ1600STは変わらずそこにあった。キーをまわしドアーをあけ運転席に座ってみた。何も変わっていない。独特のシンナーっぽいにおい。低い視界。僕はしばらくそこに座って感慨にふけっていた。




ふとみると、女性が車のドアーの脇に立って窓をたたきながら何か叫んでいる。カリーナはそんなに静粛性が高いわけではないのに何を言っているのか聞こえない。

「何かありましたか?」窓をあけていった。

女性は「あら、違うじゃない!なによ!」といって、ドアーを蹴り上げた。

「なにをするんだ!」と、言いながら外へでてみるとドアーの真ん中がぽっこりとへこんでいる。

「どうするんだよ~!これ~!」と僕が言うと女性は「直せばいいんでしょ?おいくら?」

僕は頭にきて「理由も無く人の車を蹴ってへこませてその言い草はないだろ!」と詰め寄るとスーパーの買い物袋と2歳くらいの子供を抱えた男性が「どうしたの?」といって近づいてきた。

女性は「あなた~、私の不注意でこの方の車、へこませてしまったの。直して差し上げて。」と言った。

「それはすいません。妻のやってことは僕が責任を取ります。どうぞ、修理をして請求書をこちらに回してください。」

僕は「いやいや、そういわれてこのまま帰ってもらって住所も電話番号も分からぬでは困る。お名刺とか保険証書はありませんか?」と言うと、保険証券を持ってきた。

名刺には千葉県のなんとかいう地名が書いてある。これ以上ゴタゴタしてもしょうがない。僕は名刺をもらって帰ってもらうことにした。

再び車に乗りドアーを閉めるとしっかり閉まらない。走行中に開いてしまっては大変だ。僕は事務所に行きガムテープをもらってきて乗った後、テープでぐるぐる巻きにした。このまま近くの修理工場へ行こう。ちょっと不安はあったがゆるゆるいきゃ大丈夫だろう。。。。



僕はエンジンをかけて走り出した。なじみの修理工場はここからそう遠くない。駐車場の出口まで行きブレーキを踏む。がものすごく効きが悪い。ふにゃ、っとした感じで床まで踏み込む。サイドを目一杯引かないと止まらない。・・・ありゃ~、長年、乗っていないからオイルでも漏れてデイスクについたかな?・・・



ここで僕はもうずいぶん、車に乗っていないことに気が付いた。不安がよぎったがすぐ近くなので大丈夫だろうと思い発進した。

国道16号を南下する。しばらく行けば着くはずなんだが着かない。風景もなぜか見覚えが無い。どうやら迷ったようなので大きな交差点を右折した。なにを思ったか曲がって反対車線に入ってしまった。トラックや乗用車がこちらに向かって走ってくる。プアーン!ビビビビビー!左の歩道へ乗り上げるようにして止まった。



「馬鹿やろう!なにやってるんだー!」口々にののしられた。気を取り直してUターンしたら前の車に追突。

しかも黒塗りの高級車。中から運転手らしい人が出てきた。「困りますね~!どこを見てるんですか?」今度はこっちが加害者。今日はどうなってるんだか。。。。

運転手と話していると後部座席の窓が開いて車の持ち主らしき方が声をかけてきた。

「君、怪我は無い?」

・・・え?僕の事?・・・

「はい。けがはありません。」

「君の車のドアーがへこんでいるようだけど・・・」

「あ、これは違うんです。これを修理しようと工場へもって行くところなんです。」

「工場はどこ」

「○×の○△です。」

「あ~、あそこの○○さんなら良く知っているよ。僕の車はなんとも無いから、気にしないでいいよ。君の車はひどそうだね。取りに来るよう頼んであげるよ。」

「え?ホントですか?申し訳ないです!僕の方がぶつけたのに。。。」



小1時間ほど待っているとレッカーがやってきた。若い男が3人。

金髪の小さい男とふとっちょと工場で見かけたことのあるつなぎの男。

「○○さんに言い付かってきました。お車お運びしますんで後ろで寝ていていいですよ。」

僕はほっとしてカリーナの後部座席で眠りに付いた。

目が覚めると金髪の男が運転している。助手席には太っちょ君が・・・

「あれ?自走して持っていくの?」

「あたりまえっすよ~!」金髪男がにやりと笑った。


To be continued