2011年6月22日水曜日

Superstition

I was born in the house of the loquat trees. It's actually pretty sweet. However, that tree and I would have been cut down kidney disease. Become ill and live in a house with a loquat tree, because it was rumored. Of course, superstition.


Norifumi Watanabe

2011年6月21日火曜日

2011年6月16日木曜日

会話

うた (@utauta03)
11/06/15 0:28
@dialysis40 イケメンらしいです(´∀`)
渡辺典史 (@dialysis40)
11/06/15 0:16
@utauta03 トイレの神様って本当にいるんだ〜(^◇^;)
うた (@utauta03)
11/06/15 0:12
@dialysis40 魚卵系が負のパワーを発揮しちゃった時は相当におとろしい事に(((・・;) 過去に経験があるですけど お手洗いの神様になるんじゃないかと思うくらい長居するはめになります(p_-)
渡辺典史 (@dialysis40)
11/06/15 0:06
@utauta03 えー!?筋子パワー!(◎_◎;)
うた (@utauta03)
11/06/14 23:43
@kususan 負のパワーにより明日あたりここ数日のお通じ不全が一気に解消されるかもです(^_^;)
kususan (@kususan)
11/06/14 23:35
@utauta03 楽しみにして待ってます。入院して呟けなかったりして。
うた (@utauta03)
11/06/14 23:14
コンビニ購入の生暖かい筋子おにぎりを部屋に半日放置しててさっき食べたらば妙な刺激風味があったけど飲み込んだです 今後の展開に乞うご期待(p_-)


渡辺典史(^ー^)ノ

2011年6月14日火曜日

2011年6月13日月曜日

@dialysis40, 11/06/13 16:42

渡辺典史 (@dialysis40)
11/06/13 16:42
今日のぐるぐる終了(^ー^)ノ500残しになるかと思ったけど300残しで~!


Norifumi Watanabe

2011年6月9日木曜日

@dialysis40, 11/06/09 12:12

渡辺典史 (@dialysis40)
11/06/09 12:12
バーミャンで昼ご飯。炙りチャーシュー麺と餃子(^o^) http://t.co/HEDPmg9


渡辺典史(^ー^)ノ

透析を始めた頃。

From Evernote:

透析を始めた頃。

昭和40年、小2の2学期が始まって間もなくの事、プール実習がありました。
ちょっと雨模様で薄ら寒い日でしたが、水着に着替えタオルを引っ掛け整列して、
先生がプールの水温を計って実習を行うかどうかの報告を待っていました。
結局、実習は行なわれその日は楽しく泳いだのですが、
それが私の運命を狂わせたのだと思います。
翌日、日曜日だったと思いますが、母とお隣の叔母さんが顔を見合わせて何か話しています。
僕の脛を押してみたり顔を覗き込んで、おばさんが言いました。
「こりゃ、間違いなく腎臓だよ!明日、お医者に見せなさい!」

次の日、母に連れられて国立横須賀病院小児科を受診しました。
隣のおばさんの診断通り、腎臓病でした。医師は
「急性腎炎です。二週間ほど入院すれば完治できます。」
母は心配そうに言いました。
「この子は毎晩オネショするんですがご迷惑じゃないですか?」
医師と看護婦は笑って
「大丈夫、それも治しましょうね。」
その日入院して、以来オネショはピタリと治りましたが、腎臓は悪化。
いつしか病名はネフローゼ症候群となり入院は一年間に及びました。
自覚症状はあまりなく、安静療法が続きます。
学校の遅れを心配した両親は近くに内科小児科医院が開院した事もあって僕を退院させ、通院しながら自宅で療養する事になりました。
学校へも復学して通院と通学の日々が4年続きました。

昭和44年、5年生になった2学期の始め、登校途中、どうしても学校へ行きたくない、
という思いが湧き上がりました。たいして気分が悪いという事ではなかったのですが、
どうしても行きたくない。
このまま帰れば母に言い訳をしなければならないので、
喉に手を突っ込んで無理矢理、胃の中の物を吐き出しうちへ戻って、
「気分が悪くなって戻した。」
と言って布団を敷いてもらい、寝ました。

それきり2週間ほど寝込んでしまいました。食事も殆ど手を付けられなかったです。
かかりつけ医が往診をしてくれましたが、
「尿量も普通にあるし、血圧も異常がない。きっとこれは精神的なものだよ。全学連のストライキみたいなものだね。紹介状を書くから一度みてもらいなさい。」
といって横須賀共済病院の精神科宛に紹介状を書いてくれたのです。
その夜、容体が急変し、救急車で横須賀共済病院へ搬送されました。

三日間、意識不明がつづき、病名は不全による尿毒症。
栄養失調と脱水、高カリウム血症、担当した腎臓専門医は
「なぜ、ここまで悪化するまで病院につれてこなかったのか!」
と激怒したそうですが、街の医師には尿毒症の判断などできなかったんです。
でも、その医師が書いてくれた精神科への紹介状、そのおかげで救急車の隊員に横須賀共済病院へ連れて行ってくれるように頼め、
そこには全国でも数少なく神奈川県内では唯一の人工透析という治療法があったのです。そこで腹膜透析を昭和44年9月27日に行いました。
意識は朦朧としながらも腹膜に穴をあける瞬間は覚えています。
医師が体に馬乗りになり
「のりちゃーん、先生がはい、って言ったらお腹に力をいれてね。わかる?」
何かするんだな、と思い「はい。」というと、
「言ってる事は聞こえているんだな。。。」
それからお腹を触られたあと大きな声で「はい!力いれて!」と言われたのでお腹に力を入れると、バスっとお腹が破られる感じがして管が通された。
そのまま、また、気を失った。

それから毎日、腹膜透析を続け、僕は助かりました。
10月にはいると歩けるようにもなりました。
翌年昭和45年、入院をしながら腹膜透析を続けていましたが、
医師からもっといい方法がある、それをすれば学校へも通えるようになるから、
と言われ、3月に外シャントを作り、

昭和45年4月6日、始めて血液透析を行いました。
その頃の透析は現在のように針を刺す事はなく、
動脈と静脈に直接繋ぎ体外に露出させたカテーテルを透析回路にコネクターで接続し自分の血流で回路に血液を流入し循環させました。
ダイアライザーはキール型(積層型)といって一回ごとに膜を張り替え再使用するもので患者のみならず血液に直接触れる看護師などにも感染の危険性があるものでした。
透析液監視装置はミルトンロイというアメリカ製の個人機で一人用の制御しかできません。
それを先生が工夫してふたつのダイアライザーを直列でつなぎ、
複数の患者が使えるようにしました。もちろん同時に行う透析では個人の設定は出来ないので同じ様な体型、体重の人が組み合わされ、
片方の人が極端に体重を増加してきても対応出来ないため水分管理、体重管理を厳しく指導されました。
一回の食事ごとに薬を飲む水として50cc、一日150cc、体重増加は一日350gという厳しい制限です。そのため、栄養状態も悪く、貧血で苦しい時代が続きました。

2011年6月8日水曜日

2011年6月5日日曜日

長期透析表彰をうけて。

Awarded more than 40 years as a dialysis patient.

From Evernote:

長期透析表彰をうけて。

5月29日に名古屋で行われた全腎協40周年記念全国大会において、40年以上の長期透析患者として表彰をしていただけるということで、出かけていきました。新杉田から根岸線で桜木町、横浜線にて新横浜、新幹線で名古屋、名古屋から中央線で金山、名古屋市営地下鉄で日比野という長い旅になりましたが、神奈川県腎友会の青年部長さんとご一緒させていただき、大変楽しい旅でした。
当日は生憎の雨模様でしたが会場の名古屋国際会議場センチュリーホールが満員という大盛況でした。
全腎協会長からねぎらいのお言葉を賜り表彰状を受け取りました。ネットでの生中継もあり、インタビューを受けたりでちょっと緊張しましたがよい記念になりました。

今回、長期透析患者ということで表彰を受けましたので透析を開始した頃の思い出を少し書きたいと思います。
私が透析を始めたのは1969年、アポロ11号が月着陸した年でした。12歳でした。
8歳の時からネフローゼで入退院を繰り返していましたがその年の秋、体調が悪化、救急車で横須賀共済病院で腹膜透析を導入しました。子どもでありましたので詳しい病状の説明はなく、透析も一時的なもので、いずれ病気はよくなるものと思っていました。が、腹膜透析は毎日行わなければならず、病状もよくならず、入院も長引きました。そこで、まだその病院では小児には行っていなかった血液透析を導入する事になり1970年3月にシャントをつくり、4月6日、始めて血液透析を行いました。
その透析は今とはまったく違います。シャントは外シャントといってカテーテルが腕からむき出しになっているものを使いました。それを透析器の回路にコネクターで直結して繋ぎます。血液ポンプはなく、自己血圧で血液が透析器に流入していきます。まさに血の引く思いでした。
EPO製剤もまだ発明されておらず腎性の貧血はひどいものでした。ヘマトは10とか15しかなく、回路に 流れる血液は向こう側が透けて見えるほどでした。それでも大人の方たちは仕事に、小学校5年の私には学校へ行けといわれました。それはこの治療の目的が腎不全患者の社会復帰が目的だったからです。仕事に行く方たちはオーバーナイトで深夜透析をしたその足で職場へ行きました。何より怖かったのは休業により職を失う事だったからです。

1970年当時、健康保険の適用にはなっていましたが、家族には3割の負担 がありました。3割といっても当時の透析医療費は高く月20万~30万の負担がありました仕事を続け保険料を払い続け本人であることが生きる道でした。主婦や健康保険の本人でない人は、家族の重荷になることを懸念し透析を拒否したり、自殺をしたりしました。そんななか71年ごろになると全国各地で患者会が立ち上がり、この窮状を政府や国会に訴えようという動きが高まりました。横須賀でも71年4月に腎友会組織が出来、同年には全腎協も出来、国会請願も始まりました。その運動が始まり1年も経ずして、透析患者全員に身体障害者手帳が交付され更生医療の適用を勝ち取り、誰でも無償で透析が受けられるようになりました。
1969年に日本はGNP世界第2位になるという経済発展の最中という時代の利もありましたが、苦しい体調の中でも国会に足を運び自分と仲間の窮状を訴え続けた全腎協創世記の先達の努力によって誰でもが無償で透析医療を受けられる事を忘れてはいけないと思います。
あれから40年、全腎協の益々の御発展を祈念し筆をおきます。

2011年6月1日水曜日

会話

クニクニ (@kunikuni1963)
11/05/30 10:38
@dialysis40 ありがとうございます いやいや立派!患者の鏡です!!
早く知ってたら大声援送ったのになぁ〜 (^^ゞ
渡辺典史 (@dialysis40)
11/05/30 10:14
@kunikuni1963 ありがとうございます。表彰式なのにアロハで行ったオバかなやつです(^_^)☆
クニクニ (@kunikuni1963)
11/05/30 7:17
@dialysis40 おはようございます え? 昨日表彰されてた中の1人だったんですか?知ってたら… おめでとうございます m(_ _)m
渡辺典史 (@dialysis40)
11/05/29 21:05
@micl410201 お疲れ様でした〜。またゆっくりおあいできるといいですね。
みっくる (@micl410201)
11/05/29 19:36
帰宅して夕食食べました。・・・今回名古屋でお世話になった方々、ありがとうございました。またお目にかかったときはよろしくお願いいたします


渡辺典史(^ー^)ノ